メソテース μεσοτης

読んだ本をもとに少し考察をしています。主に思想、哲学、教育に関連した本をもとに執筆していきます。読みたい本など、読書会のお誘いも随時受け付けております。

「誤配」の教育的意義について

   皆さんこんばんは。最近は学校での授業や業務にも少しずつ慣れてきて、心身ともにゆとりがでてきました。それに伴って、読書の量・スピードも上がってきています。なかなか充実した毎日を送っています。

   その中の本の一つで、つい先日刊行された、東浩紀さんの新著である『テーマパーク化する地球』(ゲンロン)を読みました。そこで以前から東さんがしばしば用いていた「誤配」や「余剰」について色々と思考を巡らせていたのでそれについてまとめたいと思います。

 

Ⅰ. 「余剰」と「誤配」その目的と、等価交換

   まずは、東さんが運営の思想について書いていることを引用します。

 

「運営の思想は資本主義の論理である。もう一歩踏み込んで哲学的に定義すれば、「等価交換」の論理ということになる。運営者は、消費者に対価に応じたコンテンツを提供し、対価に応じた責任を負う。そしてその責任しか負わない。コンテンツを引き渡し、消費者がクレームをつけなければ、そこでプラットフォームとしての責任は終わる。コンテンツが「商品」だというのは、つまりそういうことである。」(『テーマパーク化する地球』「5 批評とはなにかⅡ」377頁)

 

   しかし、東さんによるとゲンロンが提供している「コンテンツは、じつは商品であって、同時に商品ではない」と言っています。どういうことか。

 

「つねにそこに、等価交換以上の「なにか」を、すなわち、消費者が支払いのときに事前に欲望=予想していたたものとは異なる経験を忍び込ませるように試みている。」(同上書、378頁)

 

   つまり、本来受け取ると思っていたもの「以外」にも収穫があるという「意外性」を商品の売りとしており、その「余剰」によって、「購入者を等価交換の外部へと誘っている」という。では、「(1). なぜ東さんは、そしてゲンロンという会社はわざわざ「余剰」を忍び込ませるのでしょうか?」再び引用します。

 

「これは、等価交換を意図的に「失敗」させるということでもある。消費者は、ゲンロンにおいては、商品を買うことで、少なからぬ確率で、最初に欲望=予測していたものとはちがうなにかを受け取ってしまう。それは等価交換の失敗である。けれどもその失敗は、同時に、購入者の欲望=予測が「変形」され、新たな創造性の回路が開かれるということでもある。ぼくはしばしばそれを「誤配」と呼んでいる。」(同上書、378頁)

 

   これまでの話をまとめると、等価交換以上の「余剰」を忍び込ませる理由は、等価交換の意図的な失敗によって、購入者の事前の欲望=予測を「変形」させ、新たな創造性の回路を開くため、ということです。非常に面白いです。

   では、「(2). なぜ購入者の欲望=予測を変形させ、新たな創造性の回路を開く必要があるのでしょうか?

   これは、今現在の資本主義社会が抱える問題と大きく関わっていると思います。それに関して今度は、東さんと、メディア論を専門としている石田英敬先生の共著『新記号論』(ゲンロン)から引用します。

 

「消費を分析できないような理論は、20世紀以降生きていけないんですよ。消費をもっと理解することからしか、次の社会へのオルタナティブはない。ぼくはその理論を作っていると思っている。つまり、どういうふうに欲望はつくられるかとか、どういうふうにして欲動は制御されるのかとか、(中略)そこからしかつぎの社会のビジョンは生まれない。」(『新記号論』「第3講義 書き込み体制2000」313頁)

 

「子どものころから人々がそのような意識(消費者としての意識)を産業的に育てられてきた社会に生きているわけです。労働者をふくめて、意識はみな完璧に消費者化しているんです。だから、逆サイドから行かないとだめなんです。消費者というポジションから問わないと、次の社会を問う言説は有効性を持たないんですね。」(同上書、315-316頁)

 

   東さんは、石田さんが指摘するように、これまでの資本主義の論理に限界を感じ、資本主義の担い手である消費者そのものの意識改革、つまり消費文化の改革をゲンロンという会社を通して行っているのだと推測できます。というより、これは推測というよりも東さん自身がゲンロンの何かの書籍で仰っていると思います(リサーチ不足で申し訳ございません、、、)。

   そして、その消費者の意識改革として、「余剰」による「誤配」で消費者の欲望=予測を「変形」させることを意図的に行なっています。さらに、問いを進めてみたいと思います。「(3). なぜ消費者の意識改革は為される必要があるのでしょうか?」再び『テーマパーク化する地球』に戻りたいと思います。

 

「ひとは等価交換から解放されるべきだという発想そのものが、ある観点からは危険でブラックだと非難されかねないものであることもまた承知している。(中略)しかし、そのような非難を寄せる人々は、そもそもゲンロンの逆説を、というより文化の逆説を理解していない(中略)。文化は等価交換の外部にある。等価交換を善と見なす世界からは、それは原理的に悪となる。文化とはそもそもそういうものなのだ。」(『テーマパーク化する地球』「5 批評とはなにかⅡ」386頁)

 

   ここから読み取れるのは、「文化の復権」ではないでしょうか。徹底された資本主義社会によって疲弊した自分たちの文化。いい例が「実学志向」や「人文系学部廃止」といったようなことだと思います。つまり、等価交換の外にある、人間としての文化を、また、等価交換の論理に閉じ込められ消費文化にどっぷりと浸かっている私たち現代人を救い出そうとしているように思えます。これはマルクスとはまた違った形での「資本主義に対する抵抗」だと感じます。

 

Ⅱ. 等価交換の論理で動く教育現場

   ここまで、東浩紀さん、そして石田英敬さんらによる著書2つを参考にしながら、現代の消費社会におけるひとつの解決の糸口として、「余剰」と「誤配」という概念を見てきました。ここからは、等価交換の論理に蝕まれかけており、自分が実際に関わっている教育現場について見ていきたいと思います。というのも、東さんの「余剰」と「誤配」を見たときに真っ先に「教育」が思いついたからです。

 

   今に始まったことではありませんが、教育現場における「実学志向」や「人文系学問の軽視」は顕著なものとなってきおります。私自身が高校時代の時から、「将来英語なんて使わないから英語はやらなくてもいい」や「歴史なんて過去のことじゃん!自分たちは未来に生きる人間だ!」などのように「教科」を「有用性」の尺度で測ろうとする生徒が目立ちます。さらに拍車をかけて、ひどいものだと「勉強はなんの役に立つの?」という問いも出てきたりするところもあるのではないでしょうか?

 

   しかし、これは物事を自分に「役に立つ」かどうかで判断する生徒が、子どもが悪いのではありません。というよりも、先程述べたようにそういう環境の中で育ってきているから「仕方のない」ことなのです。では、それを「仕方のない」ものとして片付けていいかと言われると、もちろん答えは「NO」です。

   このような現状を内田樹さんは、諏訪哲二さんの『オレ様化する子どもたち』(中公新書ラクレ)をもとに「学びからの逃走」(佐藤学さんが最初に言われ始めたが)というふうに説明している。では、学びから逃走する子どもたちはどのようにして生まれてきたのであろうか?

 

「私たちは、生活のすみからすみまで「情報メディア」から情報が入り込んでいる生活を、初めて経験している。朝から夜まで「情報メディア」から情報が入ってくる生活も初めてである。お金がお金を生み出す経済の運動のなかに完全に巻き込まれている。子どもたちが早くから「自立」(一人前)の感覚を身につけるのも、そういう経済のサイクルのなかに入り込み「消費主体」としての確信を持つからであろう。子どもたちは今や経済システムから直接メッセージを受け取っている(教育されている)。学校が「近代」を教えようとして「生活主体」や「労働主体」としての自立の意味を説くまえに、すでに子どもたちは立派な「消費主体」としての自己を確立している。」(『オレ様化する子どもたち』「終章 なぜ子どもは変貌し、いかに大人は対処すべきか」221-222頁)

 

   これはまさに石田さんが指摘した通り、同じことを諏訪哲二さんもしてしております。つまり、私たちは無意識のうちに「消費主体」としてのアイデンティティをまず「初め」に確立することは現代において、ほぼ間違いはなさそうです。

   では、消費主体として自立をした子どもたちは、「市場」ではない学校においてどのように振る舞うようになったのでしょうか。内田さんが言うには、「何よりもまず対面的状況において自らを消費主体として位置づける方法を探すようになる」ということです。つまり、教師が提供する「教育サービスの買い手」として振る舞うようになるのです。

   しかし、皆さんもご存知の通り、学校で行われている授業などは決して「商品」などではありません。つまり、「価値がつけられないもの」なのです。これは当たり前ですが、各人にとってそれぞれの「教科」が持つ価値というものは異なります(数学が一番価値があると思う生徒もいれば、音楽が一番だと思う生徒もいる)。そして、学校で教わった内容は「即」効果があることもありません。これは「教育の逆説」でもあります。「教育の逆説」とは何か。

 

「教育の逆説は、教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得ているのかを、教育がある程度進行するまで、場合によっては教育課程が終了するまで、言うことができないということにあるます。」(『下流志向』「第1章 学びからの逃走」46頁)

 

   しかし、消費主体としての生徒には、そして消費文化の中にどっぷりと浸かった人たちにとって「即時的に」役に立つもの以外は「商品」ではありません。つまり、買う(受け取る)価値がないものとなってしまいます。では、「仮に」そのような人たちにとって買う(受け取る)「価値がある」ものがあったとして、何を等価交換の対価として支払うのでしょうか?それは、内田さんによると「不快という貨幣」です。

 

「50分間の授業を黙って耐えて聴くという作業は子どもたちにとっては「苦役」です。彼らはその苦役がもたらす「不快」を「貨幣」に読み換えて、教師が提供する教育サービスと等価交換しようとする。」(同上書、48頁)

 

   このような等価交換の論理が教育現場に充満するようになったのは、資本主義の徹底化による影響で間違いありません。そして、このままでは教育が機能しなくなることは火を見るよりも明らかです。ですから、教育も東さんや石田さんが指摘したように「等価交換の外部」へ行く必要があります。というよりも、「戻る」必要があるのです。

   そもそも学びには、「教育の逆説」として先程も指摘したように自分が「今」受けている教育と、「今後」の自分の変貌との間に「時間的なズレ」がある、ということです。内田さんは、以上のような問題提起をしましたが、具体的な解決作は提示していません。教育の本質、そして学びの特徴を述べて、そのまま「労働」の問題へと話を進めていました。

   そこで、私は東さんの「余剰」と「誤配」に注目しました。これは完全に消費主体と化した子どもたちや、消費者のマインドそのものを「変形」させる必要があります。つまり、一見、等価交換している「ようで」余剰によって「誤配」されているという状況を作り出す必要がある。石田さんの言葉を借りるのであれば「消費者のポジションから問う」のです。そのためには、教師も変わらなけばなりません。でなければ、一生消費者のマインドが理解できずに、等価交換の論理のもとで機能しない教育をひたすら続けていくことになります。

 

   教育とは「文化的な営み」です。人間が人間であるために、また人間らしく生きるために古来から行われてきた営みです。そのような文化は、ここ100年で発達した資本主義の論理に負けていいはずがありません。抵抗しなければなりません。そのためには、等価交換の論理の中で正面から向き合い、「内部」から「変形」させていく必要があります。これは非常に時間のかかることだと思います。ただ、それが一番の近道だと思っています。教育が教育本来の機能を回復するために、そして人間が人間であるための文化を残すために日々考え続ける必要がありそうです。最後に、東さんによる痺れる言葉で締めたいと思います。

 

「ゲンロンは、(中略)、人間が人間であるために、等価交換の外部を回復するためのプロジェクトである。それは具体的には、匿名の商品交換の内部に誤配として人格的関係を滑り込ませるプロジェクトであり、運営の思想の内部に誤配として製作の思想を滑り込ませるプロジェクトである。」(同上書、389-390頁)

 

【参考文献】

東浩紀(2019)『テーマパーク化する地球』ゲンロン

東浩紀石田英敬(2019)『新記号論』ゲンロン

内田樹(2007)『下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち』講談社

諏訪哲二(2005)『オレ様化する子どもたち』中央公論新社

思考は「暴力」である。

   皆さんお久しぶりです。4月から学校での勤務が始まり、予想以上の忙しさに慌てふためいていました。学生時代に自分が思い描いていた生活とはかけ離れているものです、、、。自分でもなぜこんなに業務があるのか不思議なほど多いです。かつ、分からないことが膨大にあり、当たり前ですが、自分から分からないことを聞きに行かないとほぼ「放置」(言い方が悪いですが)状態となっています。というのも、こちらから「分からない」と言わなければ気づくのが難しいのだと思います。そのくらい他の先生方も仕事の多さに悩まされているのでしょう。

 

   さて、本格的な授業が始まって約1ヶ月が経とうとしています。新任の自分は、右も左も分からないまま手探りの状態で授業を進めています。授業では、自分の勤務している学校が目標として掲げている「自律した学習者を育てること」、を重点的に意識しています。そんな中、最近授業で余裕が出てきて、ふと思うようになった疑問があります。それは以前より考えていた「思考すること」についてです。

   近年は、「主体的・対話的で深い学び」を意識した授業が行われています。というより、文部科学省が必死で推し進めています。そんな中これを遂行するための手段として「アクティヴ・ラーニング」が流行していますね。生徒が「能動的に」学習に参加し、学習するように授業を設計しますが、これがまた非常に難しいです。安易にグループワークをして、生徒同士で話し合いをさせ、生徒が能動的に学習している「つもり」になってしまう恐れが非常に大きいからです。

 

   今回の記事では、このような「能動的な学習において生徒が“思考すること”」について書いていこうと思います。流れは以下のようになっています。

 

  1. 誰もが「思考すること」について知っているのか?
  2. 思考は「暴力」である。
  3. 選択の自由と、選択肢の自由について。
  4. 実際の授業ではどうすればよいのか。

 

1. 誰もが「思考すること」について知っているのか?

   皆さんも学生を経験したのであれば分かる人も多いと思うこの言葉、そして先生をしている人であればついつい使ってしまいがちなこの言葉、、、

 

グループのみんなで考えてみてください

 

   先生からのこの言葉で困惑した人は多いと思います。この言葉の裏に潜んでいる意味について少し考えましょう。この言葉の前提にあるのは、「すべての人が“思考すること”について知っている」ということです。ですから、みんな思考できる「はず」だと思い、暗黙のうちに指導してしまうのだと思います。果たしてすべての人は本当に「思考すること」について知っているのでしょうか。

   かつてデカルトは「私は思考する、ゆえに、私は存在する」と言いました。これは《コギト》の概念が指す内容ですね。この言説に対して、哲学者のジル・ドゥルーズは以下のように述べています。

 

この前提は、「すべての人が知っている……」という形式をそなえている。すべてのひとは、概念以前に、哲学的以前的な様態で、知っている……、すべてのひとは、思考することそして存在することが何を意味するのか知っている……、したがって、(中略)存在することおよび思考することが何を意味しているのかを、すでに〔すべてのひとによって〕理解されたものとして、暗黙のうちに前提することができる……、そして、だれも、疑うことは思考することであり、思考することは存在することであるということを否定できない……、すべてのひとは知っている、だれも否定できない。(『差異と反復』「第三章 思考のイマージュ」、347-345頁)

 

   さて、この引用から分かるようにデカルトによる《コギト》の概念に強化された「思考すること」の自明性は依然として強力なものです。その理由として考えられるのは、私たち自信が普段の生活で思考「している」からではないでしょうか。例えば、学校でテストの解答を「考え」、どのように書くかを「思考」します。それ以外でも、日常生活において寝ている時以外は、ほぼ、思考しています。しかし、日常的であるからこそ陥りやすい罠がここには潜んでいると思います。それはどういうものかと言うと、デカルトが指す「思考すること」(以下、デカルト的思考)と、私たちが普段行なっている「思考すること」(以下、日常思考)は、全くとまではいかないにしても、別物だということです。そして、前者の「思考すること」は訓練を積まなければ「できない」のではないでしょうか。補足説明すると、「デカルト的思考」と「日常思考」の両者の間の境界線は非常に曖昧です。ものすごく重なり合っていると思います。さらに言えば、「デカルト的思考」は定着すると(内在化)、「日常思考」にもなりうると思います。

   では、どうすれば「デカルト的思考」を身につけることができるのでしょうか。

 

2. 思考は「暴力」である。

   さて、私たちは学校で「知識」を学び、そして大学でも、仕事場でも概念としての知識を学びます。これは「形式知」と呼ばれています(これに対置されるものは、経験されることによって身に付けることのできる「経験知」です)。ドゥルーズはこの「概念」にある一つのものが欠けている、と述べています。

 

まことに、概念というものは可能性を示しているにすぎないのだ。概念に欠けているのはひとつの爪である。絶対的必然性の爪、すなわち思考に加えられる根源的暴力という、また奇妙さという、あるいはそれだけが思考をその自然的昏迷とその永遠の可能性とから救い出す敵意という爪であるようなひとつの爪である。(同上、371頁)

 

   なぜ、思考に対してある種暴力的な「」が必要なのでしょうか。そもそもこの「爪」と一体何なのか。それは、非日常的なモノ(物理的な物だけでなく、他者から発せられる言動や、出来事なども)であると思います。例えば、毎日元気よく挨拶してくる友人が急に何も挨拶しなくなったらどうでしょうか。「なぜ挨拶しなくなったのか」「何か悲しいことがあったのか」考えることでしょう。これが「思考」であり、暴力的な「爪」によって引き起こされているものです。つまり、人は意志的に思考しようとしているのではなく、思考「せざるを得ない」状況になることで思考しているのです。ドゥルーズは続けて以下のように述べています。

 

思考のなかに強制的に引き起こされた、非意志的な思考〔作用〕よりほかに思考は存在せず、不法侵入によって、偶然から世界のなかに生まれ出るがゆえに、ますます絶対的に必然的であるような思考しか存在しない。思考において始原的であるもの、それは不法侵入であり、暴力であり、それはまた敵であって、何ものも愛知(フィロゾフィー)〔哲学〕を仮定せず、一切は嫌知(ミソゾフィー)から出発するのだ。(同上、371-372頁)

 

   この引用が意味するところは、思考においてその「開始点」となるものは、「暴力(爪)」である、ということであります。つまり、開始点において既に「受動的」なものが思考なのです。

 

3. 選択の自由と、選択肢の自由について。

   さて、ここまでくるとこの節の見出しの意味もすぐに分かるでしょう。私たちは日常的に思考していることは、「日常思考」を用いて説明しました。この日常思考を行なっている時、私たちは「自由である」と感じています。なぜなら、自分が考えて、自分で物事を「選択」しているからです。テストのために勉強するも、しないも「自由」です。

   しかし、よく考えてみましょう。私たちはそのような選択を本当に自由に行なっているのでしょうか。何事もなく、日常生活を送り、学校に行っているなかで、ふと「海外に留学しよう」という気持ちが湧き出てくるでしょうか。つまり、「新たな」選択肢は生まれてくるのでしょうか。先ほども述べたように、思考は「暴力」です。思考とは能動的なものではなく「受動的」なものであるとも述べました。つまり、選択肢は与えられているものであって、その与えられたものの「範囲内」で自由に思考しているにすぎない、ということです。ここで注意してほしいのは、選択肢を与えるものは決して人物「だけではない」ということです。テレビのニュースや、街中で見かけた少し異様な光景、普段とは違った風景の通学路、など様々です。

   これらはみな「暴力」です。それは先ほどドゥルーズの引用から見たように、他者の頭の中へ「不法侵入」して、非日常を見せつけているからです。これを暴力と言わずして何と言いましょうか。

 

   ここから、人間は独りでは「思考すること」が難しいことが分かります。私たちは、常に、他者が思考できるように働きかけ(暴力)、選択肢を増やし続けるのです。そうすることで、(本当は受動的な)思考もより自由に「感じる」ことができると思います。

 

4. 実際の授業ではどうすればいいのか。

   もう既にお判りかとは思いますが、生徒に考えさせたいのであれば、こちらから選択肢を提示しなければなりません。もちろん、選択肢の増やし方を教えるのもいいと思いますが、まずはこちらから強制的に提示する方がいいと思います。生徒は与えられた選択肢のなかで「考え」、そして深めていきます。こうして深まった知識は間違いなく他の知識と結びつきます。

   「思考の仕方」や「考え方」がわからない生徒、というよりもそういうことをそもそも知らない生徒に対して「自由に考えて!」というのは余りにも酷なことだと思います。考えてみてください。360度見渡しても砂しかない砂漠に独り放置された状況を。非常に恐ろしいです。本当に生徒に「思考」させたいのであれば、それを当たり前と思わずに、「思考するとはどういうことか」をしっかりと考えるべきです。そこを考えられずに出てきた「自由に考えて!」は、無責任でしかありません。今一度「思考するとはどういうことか」を自分で考えたうえで「主体的・対話的で深い学び」を実践していければと思います。

 

【参考文献】

ジル・ドゥルーズ著、財津理訳(2007)『差異と反復〔上〕』河出書房新社

   

「身体」とは?私たちが身にまとうもの、生の身体

    皆さん、こんばんは。今回の記事は、「身体」についてです。先日、友人と鷲田清一(1998)『ひとはなぜ服を着るのか』(ちくま文庫の読書会をしました。この本の内容、そして読書会での話のまとめとして、「身体」に焦点を当てながらいきます。

    これは、当初自分が予定していた、「モノ」と「精神性」について、少し関係してくるのでこちらの方も念頭において説明をしていきたいと思います。ただ、予定していた、というより書こうとしていた内容とは主旨が異なってしまうのはご了承ください。

    当初予定しておりましたのは、「ヒトはなぜ「モノ」に精神的な感情などを写すのか」という問いから始まるものでした。しかし、今回はそうではなくて、「なぜヒトは「モノ」に「意味」を付与するのか」、もしくは「「モノ」はなぜ「意味」を帯びるのか」という問いを核に置きながら話を進めていきます。そして、これらの問いと「身体」を合わせながらも進めていきましょう。以下がこの記事の流れとなっております。

 

(1). ひとはなぜ服を着るのか?

(2). 「衣服」が持つ機能とは?

(3). 「物質」としての〈身体〉の機能とは?

(4). おわりに

 

(1). ひとはなぜ服を着るのか?

    私たちは、古来より(二足歩行をするようになってから)何かしらの「布」を身にまとっています。恐らく、最初期の「衣服」というのは、「防寒・防護」や「恥じらい」といったように「機能的」な側面から意味を成していたと思われます。しかし、「衣服」の役割とはそのような「機能性」にとどまるものでしょうか。鷲田さんはこの「機能性」におさまらない例をいくつか出しています。それは、「ピアス・コルセット・ルーズソックス・ソヴァージュ・ヘア」といったものです。それ以外にも山のように「機能性」がないモノは存在しています。これらは今までの話の流れでいきますと、「反機能的」な役割でしかありません。

    では、なぜひとはそのような「反機能的」な「衣服(またはアクセサリー)」を身につけるのでしょうか。ここには、「機能性」にはとどまらない、別の意味が確かにあるように思われます。

    さて、ここで私たちの「身体」と、「衣服 or アクセサリー(モノ)」が関係してくることが分かると思います。そこで、問いは次のようなものになると思います。すなわち、なぜ私たちは「身体」に飽き足らず、「モノ」を身につけるようになったのでしょうか。鷲田さんによると、その答えは2つあげられます。

    まず、1つ目は「〈わたし〉という曖昧な存在に輪郭を与えるため」だと言います。私たちは、自分の「からだ」を所持している、といより「からだ」で生活をしていますが、その「からだ」全体について漏れ無く把握していますでしょうか。私たちが、自分の身体について持っている情報というのは、ごく限られた情報に過ぎないのではないでしょうか。鷲田さんは次のように言います。

 

じぶんで見えるところというのは、身体の前面のごく一部に限られています。だれもじぶんの背中や後頭部をじかに見たことはありません。〔……〕それだけではありません。身体の内部となると、これはレントゲンや超音波撮影機や体内カメラといった高度な技術を使わないと、ぜったいに見ることはできません。〔……〕じぶんのなかからふつふつと湧き上がってくる欲望や感情、これもわたしたちはなかなかうまくコントロールできません。〔……〕わたしたちの身体は、知覚情報も乏しいし、思うがままに統制もできないという意味では、〈わたし〉から想像以上に遠く隔たったもののようです

(『ひとはなぜ服を着るのか』「第1部 ひとはなぜ服を着るのか」、28頁、赤字・下線は筆者によるもの)

 

    少し長くなりましたが、この文章を読めばいかに私たちが、自分の身体について制限された情報しか扱えていないことに気付くかと思います。つまり、私たちは自分の身体は「イメージ」として全体像を思い浮かべるしかないのです。ではそれと「衣服」にどのような関係があるのでしょうか。これに関して、鷲田さんは、アメリカの心理学者であるセイモア・H・フィッシャーが『からだの意識』(村山久美子・小松啓訳、誠信書房、1979年)のなかで指摘したことを取り上げて説明しています。

 

かれによると、たとえば風呂に入ったり、シャワーを浴びたりするのが心地いいのは、湯や水のような温度差のある液体に身を浸すことによって、皮膚感覚がはげしく刺激され、活性化されるからです。ふだん視覚的には近づきえないじぶんの背中の輪郭が、皮膚感覚の活性化によってにわかにくっきりしてくるというのです。(フィッシャーの意見)

(前掲同書、29-30頁)

つまり、このことによって〈わたし〉の輪郭が感覚的に補強されるので、自分と外部との境界がきわだってきて、じぶんの存在のかたちがたしかなものとなり、気持ちが安らいでくるというものです。(鷲田解釈)

(前掲同書、30頁、()内の言葉・赤字・下線は筆者によるもの)

 

    どうでしょう。衣服の持つ「機能性」以外の意味が徐々に浮かび上がってきましたね。ここで、「普段の」私たち、つまり衣服を身につけて生活している私たちが、「三重の構造」になっていることが分かると思います。

 

    (1).「物質的」な身体を持つ〈わたし〉

    (2).「イメージ(像)」としての〈わたし〉(E・ルモワーヌ=ルッチオーニ「第一の衣服」)

    (3).「衣服」を着る〈わたし〉(「第二の衣服」)

 

    ここまで整理すると分かるように、「衣服」を身につけることで、漠然としていた〈わたし〉が徐々に形作られていくようになるのです。そして、この「三重の構造」から「衣服」についても更に理解が深まるかと思われます。そして、先述のの「三重の構造」は以下のようにも言い換えることができるかと思われます。

 

    (1).「自然な(natural)」身体 → Body(からだそのもの)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    (2).「内的な(internal)」自己(主体性)→ I(主格としての〈わたし〉)

    (3).「外的な(external)」自己(社会性)→ Me(客体としての〈わたし〉)

 

    つまり、(1) は「モノ」としての〈わたし〉、(2) と (3) は観念的な、すなわち「精神的」な〈わたし〉として捉え直すことができます。

    さて、長くなりましたが、これが「なぜ衣服を着るのか」という問いに対する1つ目の答えです。つまり、「衣服」を身につけることで、漠然とした「イメージ(像)」としての〈わたし〉を認識することができるようになるためだからです。

 

(2). 「衣服」が持つ機能とは?

    さて、次はいよいよ2つ目の理由です。結論から述べてしまうと、衣服やアクセサリーは、「社会的な記号として働く」ため、です。先述した、衣服を身につける理由の1つ目は、「内的な」ものでした。そして、2つ目の理由は、「外的な」ものであります。つまり、誰かから「見られる」ということになります。ですので、何かしらの印象は他者に「与える」ことになります。そして、他者の中に〈わたし〉が客体(認識の対象)として存在することになるのです。

    ここから分かるのは、衣服には「機能的な」機能以外にも、「シンボル的な」機能を持っていることですね。それはどういう風に機能するのでしょうか。そして、これは具体的にはどういうことなのでしょうか。鷲田さんは以下のように説明しています。

 

たとえば、わたしたちの社会では、男性と女性は骨格はほとんど変わらないのに、ズボン/靴下とスカート/ストッキングというふうに下半身はまったく別の衣料で覆います。さらにそれとのバランスで上半身につける上着も下着も、ずいぶん構造がちがっています。服装の色づかいにも、長らく比較的厳格な男女差がありました。もっとも、男性がスカートやストッキングをはくのは「ふつう」ではないですが、女性のばあいはズボンや靴下も許容されているというように、男女のあいだの差異も完全に対称ではありません。(前掲同書、36頁)

 

    物質的(構造的)にはほとんど同じなのに、なぜ身につけるものがこうも違うのか、ということになりますね。そこで鷲田さんは以下のように指摘しています。

 

そこには強い象徴的な意味が込められているとしか言いようがありません。その意味では、性差が服装の差を決めるというよりも、服装の差異が性差の意識をかき立てると言ったほうがよさそうです。(前掲同書、36頁)

 

    では、なぜ私たちは、衣服にこのような「社会的な意味」を持たせるようになったのでしょうか。そして、モノであるはずの衣服が、なぜ「社会的な意味」を帯びるようになったのでしょうか。そこにある理由のひとつに、私自身は「身体の有限性」があると考えています。

    私たちがもつ「物質的な」身体には、限界が必ずあります。簡単に言うと「皮膚」がそれに当たります。そして、私たちの身体はその「皮膚」を越えて先に出ることはできません。強制的に抜け出ることは可能ですが、それは「〈わたし〉の崩壊」、つまり「」を意味することになります。ですので、その有限性の中で私たちは、他者とは異なる「表象の仕方」を学ぶ必要があったのです。それが「衣服」であり、「アクセサリー」であり、「化粧」であり、「刺青」です。これらを、有限な身体のうえに「レイヤー」として重ねることで、限界を拡張しているのです。

 

このように身体の表面で、ある性的ならびに社会的な属性を目に見えるかたちで演出することで、服装は個人の人格を具体的にかたちづくっていくわけです。イメージの服を着込みながら、着換えながら、です。こうしたことから、西洋には “Clothes make people”(衣が人を作る)という諺もあるくらいです。(前掲同書、40頁、赤・下線は筆者によるもの)

 

    ここまで話してきて分かるように、私たちが毎日何気なしに身につけている「衣服」などには、このような意味も持っているのです。当然、これらの「社会的な意味」というのは、文脈が異なれば機能しなくなります。つまり、ある種の「コード(code)」として働くものなのです(ドレス「コード」が良い例)。

    ここで、疑問が湧くと思います。「衣服」によって、「内的」「外的」な〈わたし〉(精神的)は形作られていくことがわかったのだけれども、「物質」としての〈身体〉が持つ機能とはなんなのでしょうか。そもそも「物質」としての〈身体〉は、「生命維持」の機能しかないのでしょうか。最後はこの点を考えていきたいと思っております。

 

(3). 「物質」としての〈身体〉の機能とは?

    さて、ここでもう一度、先述した普段の私たちの「三重の構造」を確認したいと思います。(1) と (2), (3) の間に点線を引いていましたが、ここで話すために敢えて二分化しておりました。

 

    (1).「自然な(natural)」身体 → Body(からだそのもの)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    (2).「内的な(internal)」自己(主体性)→ I(主格としての〈わたし〉)

    (3).「外的な(external)」自己(社会性)→ Me(客体としての〈わたし〉)

 

    今までは、観念的な下部の方について話をしていましたが、今回は上部の「物質的な」側面について少しだけお話していきたいと思っております。これは、すごく話を大きくすると、「〈わたし〉が存在するとはどういうことか」という問いとなるかと思います。(2).「衣服」が持つ機能とはで話したことは、全て象徴的なこと、つまり観念の世界のことです。それと現実世界に「物質」として実在している〈身体〉とどのような関係があるのか考えなければ、両者は互いに離れたままになってしまいます。

    ここで問題にしたいのが〈本質存在〉と〈事実存在〉についてです。これは、古代ギリシア哲学者であるアリストテレスから「存在」に関する根本的なものとして扱われてきたものであります。それに関してハイデガーを参考に木田元さんは『ハイデガー存在と時間』の構築』の中で、以下のように述べています。

 

〈本質存在〉とは〈あるものが何であるか〉、つまりそれが机であるか椅子であるかというばあいの〈存在〉を言い、〈事実存在〉とは〈あるものがあるかないか〉、たとえばここに机があるかないかというばあいの〈存在〉を言う。(『ハイデガー存在と時間』の構築』「第3章 『存在と時間』第二部の再構築」、165頁)

 

    つまり、前者、〈本質存在〉とはある物質が備えている「モノ」、付随しているものであり、その物質を説明するものである。そして、後者は、それがあるかないかという「事実」を意味するものである。

    話を戻して考えてみましょう。ここで、問いが2種類存在することが分かると思います。すなわち、「(1). わたしとは「何」か」、「(2). わたしが存在するとは「どういう」ことか」です。〈わたし〉という存在を考えるときには、この2種類の問いとともに考えなければ、どちらかが抜け落ちてしまい、ドツボにハマってしまったり、、、ということになりかねません。というのも、そもそもの問いの立て方が間違っていれば、出てくる答えも「見当違い」のものになるはずだからです。

    ただ、これらの問いに筆者自身が答えることができるかと言えば、もちろん「NO」ですので、これから徐々に考えていきたいと思っております。

 

(4). おわりに

    さて、最後の方はものすごく抽象的になり、漠然としたまま終わってしまいましたが、問いを2種類に分けたことで、皆さんが自分自身について考える際の一つの助けとなれば、と思います。私たちが普段何気なしに信じている「身体」も、何気なしに身につけている「衣服」も掘り下げて考えてみれば、意外と深いものです。

    この記事に関するコメントや意見なども随時受け付けておりますので、ぜひ気軽に投稿ください。その他記事もお時間ありましたら一読お願いします。

 

参考文献

木田元(2000)『ハイデガー存在と時間』の構築』岩波現代文庫

鷲田清一(1998)『ひとはなぜ服を着るのか』ちくま文庫

 

「知識」と「行動」:ノブレス・オブリージュ

    皆さんこんばんは、私事ではありますが、本日、3/22(金)に大学院を修了しました。この2年間本当に学びたいこと、そして身にしみて学習したこと、様々あります。ここにその全てを書いていると、それだけで終わってしまいそうなので、今日は自分が修士2年目の後半の時期に特に考えるようになったことについて書いていきたいと思います。ですので、読んだ本をベースに、というよりは自分の経験を基に書いていきたいと思いますので、ご了承を。

 

    さて、タイトルからも分かるように、今回の記事は「知識」と「行動」についてです。そして、自分にとってすごくタイムリーなことでもあったのですが、それに関連して「ノブレス・オブリージュ」についてです。これは自分の友人と話していたし、何より卒業式の学長の式辞でこの「ノブレス・オブリージュ」がでてきたので。

    まずは、「ノブレス・オブリージュってなんのこと??」って人のために、少し説明させていただきますね。非常に重要なことですので、知っていて損はないかと思います。

 

ノブレス・オブリージュ [noblese oblige] とは、直訳すると「高貴さは(義務を)強制する」を意味し、一般的に財産、権力、社会的地位の保持には責任が伴うことを指す。」(Wikipedia, https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ノブレス・オブリージュ, final access 2019/3/22, 22:52)

 

    ここで言う「義務」とは非常に広義なもので、様々な場面に適用されるものであるので、別段「これ!」というような定義はなくても大丈夫だと思います。もっと詳しく言うと、「従うべき規範」とでも捉えてもらっていて問題はないかと思います。

 

    では、その「従うべき規範」とは一体何のことなのか??それが今回の記事の主題でもあります。ざっくり言ってしまうと「知識」ですね。それ(ノブレス・オブリージュ)を通して「振舞われること」が「行動」となります。

 

    皆さんの中にも、「知識はあるけど、行動に移せていない」や「行動がすべて!知識はついてくるもの!」といったように考えている人はいると思います。後者の方は、言ってしまえば「考えるより先に行動!」って人ですね。つまり、「行動>知識」の人です。一方で、前者の方は「行動<知識」の人となります(このように二元論化するのは好きじゃないですが、分かりやすくするために)。自分は生粋の前者タイプ、つまり「知識を行動に結びつけることができていない」人です。前者にしろ、後者にしろ、もちろんこのように2分割できるものではないくらいに複雑なものですが、「知識」と「行動」、この両者の結びつきについて、先程話した「ノブレス・オブリージュ」を通して考えていきましょう。簡単ではありますが、今回の記事のアウトラインは以下の通りとなっております。

 

(1). ノブレス・オブリージュ、「従うべき規範」とは?

(2). 知識「か」行動ではなく、知識「と」行動

(3). 精神的な変容には、身体的な変容が不可欠である。

 

    この3つを軸に話を進めていきましょう。最後の (3). 精神的な変容には、身体的な変容が不可欠である、というのは、 スピノザ『エチカ』をもとに話していきたいと思っております。簡単に説明すると、精神と身体は独立に存在しているのではなく、お互いが複雑に絡み合って相互に影響を及ぼし合っているという主旨のものです。ですから、新たな「知識」を学ぶことでアップデートされる場合もありますが、大規模なアップデートには「身体的な」変容、つまり「身に染みて分かること(腑に落ちる)」ことも必要なことを述べておきましょう。

 

(1). ノブレス・オブリージュ、「従うべき規範」とは?

    先程も述べたように、「従うべき規範」とは、「知識」のことです。ではどんな知識なのか?もっと詳しく言うと、「倫理的・社会的・(各分野の)専門的」な知識のことだと思っています。でもまあ、これらに限らず、スポーツにしても武道にしても「型(形 [form])」なるものが存在していて、これもその一種だと思っております(「型」に関しては、記事「「精神」でも「身体でもなく「それ」:二元論を超えて」〔https://ts-in4dents.hatenablog.com/entry/2019/01/27/005558〕で述べておりますので詳しくはこちらを参照ください)。

 

    こんな少し堅苦しいものだけなく、もっと広げて、他人の思想とか、友人のカッコいい考え方、のようなものも含まれていいのではないかとも思っております。もちろん「イコール関係」で結んでしまうのではなくて、入り口と捉えてもらえばと思います。つまり、そういう身近な存在から、本来的な意味のノブレス・オブリージュへと近づければと思っています。

 

    私たちは、誰しもが「憧れとする対象」を抱いていることと思います。もしくは、「正しいとする信念」を抱いている人もいるかと思います。最終的にはこれらが所謂「ノブレス・オブリージュ」となるのではないかと思っています。なぜなら、この「」の中身がわたしたちの行動に与える影響というのは絶大なものであるからです。例えば、以下のようなものがあります。

 

イチローの生き方は素晴らしい、私もこのように生きたい」

「差別は正しくない。だから、私たちは多様性を認め考えるべきだ。」

 

    のように、これらに限らず様々なものがあるかと思います。これらを考え、自らの思考の内に持つことで、自らの行動を見直し、行動へと移していくのです。このように、私たちの行動に影響を与える「メタ的な」ものが「従うべき規範」であることがわかります。次の節では、その「従うべき規範(=知識)」と「行動」の関係性に話を広げていきたいと思います。

 

(2). 知識「か」行動ではなく、知識「と」行動

    さて、自分は当初、知識が身につけば身につくほど、賢い人になり、正しい行動をするものだと勘違いしておりました。勘違いというのも、2つの意味で勘違いしていました。

 

    1. 知識がある人が賢いとは限らない。

    2. 知識の量が正しい選択を促すのではなく、

        知識がもたらす義務(ノブレス・オブリージュ)が正しい行動を生む。

 

    以上の2つの意味で私は、少し勘違いをしておりました。補足説明を加えますと、「賢さ」の定義まで話が広がってくるのでそこまで詳しく述べませんが、「賢さ」を規定するものは何も「知識量」だけではない、ということです。勘違いと考える理由として、賢さには「想像/創造力」「行動力」「批判力」といったように様々な要因があり、それらが総じて「賢さ」なるものを規定していると考えるからです。

 

    そして、2つ目の点に関しては、義務も行動に移さなければ意味をなさない、ということです。どれだけ「信念」を抱いていようが、他人に見える形で表象しなければ分かりません。つまり、行動が必要となってくるのです。では、正しいとされている信念を、行動に移すことでそれは「義務を果たした」ということになるのか?

    答えは「NO」であると思います。さらに説明を加えますと、義務というのは「果たした」というような過去形で表されるものではなく、「果たし続ける」というような「現在進行形」で語られるべきものであると思うようになりました。つまり、終わりなどない、ということです。

 

    人間誰しも、影響を与える人やモノ、出来事に出会った時は、動機付けされるものだと思っています。そして、その最初の動機付けのエネルギーは凄まじいです。ですので、何事も影響を受けた「最初の一回」は、できるものなのです(実際にこのブログも最初の記事を書くのはできたが、そこからがキツイ)。人間だから、面倒なこと、困難なことは避けたくなる傾向があり、楽な方へ楽な方へと流されていってしまいます。ここに私が、知識「か」行動、というように分けて考えたくない理由があります。つまり、「知識に基づいて行動したら、それでおしまい」というようなことです。

 

    常に、「知識→行動→知識→行動....」というように、自身をこの渦中へと位置付けたいと思っております。これこそが「ノブレス・オブリージュ」なのではないかとも思っております。ただ、やはり、なかなか自分を律して困難な方面へ自分を正していくことは難しいです。「強制力」のようなものを持ってして律しないことには、簡単に楽な方へと流されてしまいます。ここでは、どれだけ素晴らしい人の思想、信念などをもってしても難しいところがあると思っています。その理由はやはり、知識と行動が分けられた存在なのではなく、知識「と」行動、というように相互包摂の関係性にあることにあります。ですので、知識は知識でアップデートされるのではなく、行動も知識をアップデートする、むしろ「行動の方が」知識をアップデートできる可能性をより多く秘めていることを次の節で説明していきたいと思います。

 

(3). 精神的な変容には、身体的な変容が不可欠である。

    いよいよ最後の節となりました。この節では、知識と行動の両者が複雑に絡み合っていることを、スピノザの主張を基に話を進めていきたいと思います。また、自分がずっと悩んでいたことをより身近な例としてあげると、より理解が深まるとも思います。

 

「頭ではわかっているのに、行動に移せない」

「行動に移せても、継続できない」

 

    主にこれら2つが自分の悩みです。この2つの問題って、自分の「意志の弱さ」問題なのでしょうか。確かに、意志の弱さからこのような悩みに繋がっているとも言えます。もちろんその通りで、「意志が弱いからそんなことになるんだ!意志を強く持て!」と言ってくる人には、反論できないと思っておりますし、それは正しいと思います。しかし、今回の焦点は、「いかにして意志を強く持てるのか」ということにあります。つまり、いかに「受動的な存在」から「能動的な存在」になれるのか、ということです。この記事に沿って言い換えるのであれば、「知識」と「行動」をどう結びつけることができるのか、ということでもありますね。では、この問題を哲学者のスピノザの思想を基に考えていきましょう。少し難易度が上がりますが、できるだけ噛み砕いて説明しますので、一緒に頑張っていきましょう。

 

「人間が実在することを通す勢いは制限されていて、そとの原因の力によって無限に越えられる。」(『エチカ』「第4部」命題3)

 

    この命題が意味するとこを説明していきましょう。これは「自分が思考すること」また、ある「信念」というものを持ち続ける時には、「外部の様々な要因」によって、様々な方法で乗り越えられる、ということです。つまり、自らの存在は、広大な外の世界に影響を受けている、ということです(例えば、大きなイベントを開きたいと考えてはいるが、「お金、人手不足」というような外の要因によって制限されている場合のような時)。

    これを「意志」の問題と合わせて考えてみますと、外の要因によって、自らの「意志」が制限されていることが分かると思います。つまり、一見「自由」に見える意志も実は「制限された範囲内での」自由な「意志」に過ぎないのです。では、能動的に動いている、つまり、意志を強く持ち、行動に移せている人は、「なぜ意志が強く」見えるのか。これに関しても、スピノザは次のように述べています。

 

「人間が自然の一部ではないということ、また、自分の自然の性だけを通して解ることのできる、自分が十全な原因である変化以外には、何の変化も被らないで済ませるということは生じえない。」(前掲同書、命題4)

 

    これが意味するところは、「自分自身の信念について無意識的に」行動できているということ以外は、常に何かの影響を受けている、ということであります。つまり、まだ何かしらの「ルール」や「縛り」のようなものに従って行動している段階ですね。この段階は、自らを「意識的に」律しないといけないですから、非常に忍耐力が必要となります。ですから、「意志が強く」見える人の背景には並々ならぬ努力(その行動を身体化するまでの忍耐力)が伴っていることになります。

    不思議に思った人もいるかもしれません。「意志を強く持つには、強く想うだけじゃだめなの?」と。それも正しいですが、自分は自分の経験からこう言えます。

 

「意志を強く持つには、成功なり失敗なり何かしらの経験、つまり行動が必要である。」

 

    徐々に終わりが見えてきましたので、もう少しの辛抱を。なぜ、このように思うのか、これもまたスピノザは以下のように述べています。

 

「精神のものとされるかぎりでの感情は、われわれがはたらきを被る変容と反対の、それよりも強い、体の変容の観念によらなければ、抑えることも除かれることもできない。なぜなら、われわれがはたらきを被る感情は、当のそれよりも強い、それと反対の感情によらなければ抑えられることも除かれることもできず(前の命題より)、つまりは(感情の一般定義より)われわれがはたらきを被る変容よりも強い、それと反対の、体の変容の観念によらなければ、抑えられることも除かれることもできないからである。」(前掲同書、命題7、系)

 

    最後にこんなヘビーなものを、、、と思った人が大多数でしょうね(笑)大変長い文章ですが、この文章が意味することはすごくシンプルです。つまり、「感情の変化には、身体の変化が必要」であり、「身体の変化が、感情を抑え、取り除くことができる」といった内容です。

    「感情の変化?え?身体の変化??どういうこと??」と思った人たちへ、ここでもまた例を出していきたいと思います。

 

     例えば、教科書の中で、「戦争は悲劇をたくさん生み出す」といった内容を学んだとしましょう。そこで多くの人は、「戦争は二度と起こしてはいけない」というような感情を抱くと思います。もちろんこの段階で「強く」思える人はいると思います。しかし、まだ他人事に感じる人もいると思いますが、そんな人に当事者になれ!というようにはもちろん言いません。そこで、当事者のリアル話を聞くこと、自分がその体験者の話を聞くことで、その場にいたかのような「リアリティ」を感じる。ここに「身体的な変化」があると思います。そこから、友人、家族、先生などにその体験を話す、そうして継続していくことで徐々に意志は強くなっていくものです。

 

    ここで重要なのは、このような身体的な経験は「1回では済まない場合がある」ということです。その1回の程度の問題(どのくらいの影響力の大きさがあるか)もあります。そして、人によってはなかなか変化を感じない人もいるかと思います。ですが、必ず小さな経験が、ある真理への「気づき」となることは間違いありません。自分はそう思っております。

 

(4). おわりに

    さて、今まで長々と話してきましたが、結局言いたいことは、「知識」と「行動」は別々に分けられたものではなくて、互いに影響を与え合っているもの、ということです。知識をもとに行動し、その行動をまた知識で改善していく。その行動が微小なものであれ、その積み重ねが「真理」へと向かっていることは間違いありません。そして、この積み重ねが「意志の強さ」にもなるのであると思っております。

    当たり前のようにこれをやっている人は、当たり前だと思うかもしれませんが、これが自分が大学院の2年間で感じたこと、体験したことをもとに考えたことです。様々な失敗をすることで、意志の弱さを実感し、挫折しました。皮肉にもそのおかげで、やっと気づけたこともあります。最初に「ノブレス・オブリージュ」という言葉を述べましたが、これが実行されるには、継続されるには並々ならぬ忍耐力、信念が必要です。初めから、正しい考えを持ち、行動に移せない人もいるかと思います。何度も自分のことが嫌になって責めたくなるかもしれません。しかし、その失敗の経験は、知識を行動と結びつける必要不可欠なものでもあるのです。

 

【参考文献】

スピノザ著、佐藤一郎編訳(2018)『エチカ抄』みすず書房

「学校教育2.0」から考える『みらいの教育』

    皆さん、お久しぶりです。書きたいネタはあるものの、なかなか全体の構想が練れずに約2ヶ月が経過してしまいました。「モノ」と「精神性」の関係性についてや、テシラヂオのコメントへの応答「主客未分」状態について、「消費」から考える教育、など中途半端に書き進められています。しかしまあ、ゆっくり、気負いせず書き進めたいと思ってます。

 

    今回の記事のテーマは、先ほどのどれでもなく、内田良・苫野一徳『みらいの教育』(武久出版)を読んで少し考えていきたいと思ってます。というのも、先日、教育イベント「学校教育2.0」を実施しまして、前掲書に書かれていたことと似たような内容になったのでは?と思ったからです。この「学校教育2.0」という教育イベントは、自分が2月末に所属させてもらった「Teacher Aide」広島支部の活動の一環です。どういうイベントだったのか説明するまえに、「Teacher Aide」についての説明を少し。教育に関係ある人に限らず、あらゆる人にも直接/間接的に関係があることだと思っていますので、ぜひ。《団体について詳しくはこちらを参照ください「Teacher Aide HP

 

「Teacher Aide」とは?

    「Teacher Aide」という学生団体は、「教員一人ひとりを幸せにする」という目標を最終的な目標として掲げている「愛」に溢れる学生団体です。この最終目標を達成するために、3つの下位目標を設定し活動しております。

    まず1つ目は、「(1). 労働環境の整備」です。

    「給特法」や「変形労働時間制」といった少し専門的(?)なものから、膨大な学校業務、土日含める部活動の顧問指導などです(学校業務や部活動の是非などについては別途議論する必要があると思いますが、ここではそこまでは踏み込みません)。

    次は、「(2). 教員(志望学生)の意識改革」です。

    これは、1つ目の下位目標とも関連するのですが、特に学生は「教員の労働環境はブラック」という漠然としたイメージは抱いてはいるものの、具体的にはどういった原因で、何がブラックなのかイマイチ把握しきれていない面が多いと思います。そういうことが相まって「教員とは忙しいもの」という認識のまま現場に出るというのが現状ではないでしょうか(もちろん、教員は忙しい、というより仕事全般忙しいと思う、が今の状況は異常だと思います)。そういった現状の意識改革です。

    そして最後は、「(3). 教育を社会の関心事に」です。

    よく友人に言われるのが、「教員って大変だね。僕には絶対にできない。」といった内容のことなのですが、ここに含意されていることは2つあると思われます。1つは、「本当に大変そう」という意味で、2つ目は「教育は教員がすること」という意味なのですが、両者に共通するのは「(言い方が悪くなりますが)他人事」ということなんです。そうじゃなくて、教育っていうのは社会全体で行なっていくもので、決して学校内「だけ」で行われるものではありません。本当にざっくり言うと「敷居は低くあるべき」ものなんです。こういうことを発信していきます。

 

「学校教育2.0」とは?

    さて、「Teacher Aide」について概観したところで、本日の主題である「学校教育2.0」についての説明です。このイベントの主旨としては、「教育をより身近に」、そして「教育に対する価値観のアップデート」です。『みらいの教育』の中で、苫野先生も以下のように述べております。

 

「教育の「現場」は、「学校現場」だけじゃないのだと。教育はとんでもなく広範な世界です。学校現場だけでなく、行政現場もあれば、子育て現場もある。社会教育の現場もあれば、学問現場もある。そうした様々な「現場」の知見を生かし、協働し合うことが大切なのだ」(『みらいの教育』「第3章」37頁)

 

    これが、「教育」をより身近にすること、と同時に「教育を社会の関心事に」することであると思っています。そして実際、参加者は、現職の教員や、教職を取っている学生、教職をとっていない学生などがおり、多岐にわたるものでした。一応(と付けるのは、こちらの流れに自然と沿うように議論が進んだため)イベントの流れは、以下のようになります。

 

    (1). 教育とは??誰が、どこでするの??

    (2). 自分たちの学校での経験から「良かった/悪かった」ことを考えよう

    (3). 理想の教育ってなんだろう??

    (4). 教育の現状ってどうなっているのだろう??

    (5). どうすれば理想に近づけるだろうか??

 

    この流れの「予定」でしたが、議論が自然と進んだため、というよりも「理想」と「現実」が複雑に関係し合っていすぎて、議論として分けることができませんでした。ですが、断然自然な流れの議論の方が白熱しており、純粋に面白かった(主催側の自分も参加したかったです)ので間違ってはいない判断だと思っております。それでは、議論の内容を見ていきましょう。

 

議論の内容

    さて、議論の内容なのですが、流れを追いながら確認をしていると、「非常に」長い文章になりますので、議論の中でも重複したポイントをピックアップして説明していきたいと思います。

 

    (1). 個性の尊重をすべき

    (2). 環境の整備(生徒/教師)

    (3). 専門家同士の協働

 

    以上の3つのポイントが議論の中でも際立っていたので、これを基に考えていきたいとおもいます。あと、これら3つも複雑に絡み合っているので、上手くまとめれるかは分かりませんが努力します。

 

(1). 個性を尊重すべき

    この論点が出てきたのは、必然であるように思います。やはり戦後、所謂「知識偏重」型の教育がなされ、均質化された学生の大量生産というのが実際にありました。それに反するかのように、「個」に焦点を当てるような改革がここ30年くらいで進められてきています。だし、やはりどんな個人でも輝けるようになりたい、とみんな思うのでしょう。自分もそうです。教師はその「隠された個の才能」を発掘することができるかもしれないのです。話し合いの中で出てきた面白い例を挙げてみます。

 

「小学校の時に、〇〇博士、と褒めてくれた。」

 

    というものです。これは、例えばある生徒が「漢字が得意」だとしたら、「漢字博士」で、魚に詳しければ「魚博士」といったようなものです。まさに、「個」の才能を見出し、褒めることで、尊重することで、生徒の小さな自己肯定感のようなものになっているように思えます。そして、さらに面白い例として出てきたものは、

 

「多動性の傾向を持つ子ども(いつも何かを叩いている)に、音楽の先生が太鼓を叩かせてみた。」

 

    これもまた、「個性の尊重」でしょうね。教室の机に座っている間は「落ち着きがない」と捉えられてしまいかねないですが、「音楽という場所」では、それがキラリと輝くのです。このように、自分が輝ける場所を自覚するのもまた、自己肯定感につながるのだと思います。

    と、同時にこのような意見も出てきました。

 

「個性を尊重するだけでは、社会に出て食べていけない。その子が社会に出て困ってしまうかもしれない。教室という集団に属する以上、最低限集団内でのルールを守るように我慢しなければいけないと思う。」

 

    なるほど、今までの「個性の尊重」とは少し対立するような意見ですね。しかし、「その子のため思って」というような最終的な地点は同じであると思います。社会で、集団で生きていく以上、ある程度のルールや規律は受け入れなければいけない、という意見はあってしかるべきものだと思います。ただ、この意見の裏に隠されているのは、「慣習的なシステム」であると思います。苫野先生によると、「慣習的なシステム」とは、

 

「法で規定されているわけではない、〔……〕「すべての教師は部活動顧問をやらねばならない」というのは、慣習的なシステムですね。」(前掲同書、45頁)

 

    この文脈における「慣習的なシステム」とは、「教室では多動性を“ある程度”我慢しなければならない」というものであると思います。果たして本当にそうなのでしょうか?これに対する意見としては、次のものがありました。

 

「社会ではこう、という箱を当てはめて個性を制限するのではなく、その個性自体が発揮できるの社会になるべきだ。」

 

    実にいい議論の流れですね。そもそもある子の個性が発揮できるかどうかを、社会の基準に照らし合わせるのではなく、その個人の個性を基に作られる社会こそが理想だと、いうことです。この議論に関しては、今現在で、というよりもこれからも議論される問題でもあるので、「答え」など出てくることはありません。しかし、より良い未来への問題提示としては非常に有意なものであると思います。苫野先生もこのように言っています。

 

「慣習的なシステムを変えるには、まず、一体何のためにそれをやっているのかを問い直すことが重要です。〔……〕そうすると、そのシステムのおかしさが見えてくるかもしれません。このシステムのせいで苦しんでいる先生や子どもたちがいることも、見えてくるかもしれません。そこで次に、もっと皆が幸せになれるようなビジョンと、そこへ至るまでのロードマップを描いていく。」(前掲同書、46頁)

 

    「本当に我慢すべきなのか」「この集団のルール、規律は本当に正しいのか」こういったことを考えていくことで、また違った「個性の尊重の仕方」が見えてくるかもしれません。今の基準の範囲内で、個性の尊重をする次元から、その基準そのものを疑うことで、さらなる個性の尊重のされ方があるように思われます。

 

(2). 環境の整備(生徒/教師)

    この議論には2つの対象が含まれています。すなわち、「生徒」にとってと、「教師」にとっての環境です。当然、学校は生徒だけでも、教師だけでもなく、生徒・教師・事務員・給食の人・SSW・SCなど非常に多くの人がいる場所です。これら全員にとって「最低限」いい環境を目指すことは何も悪いことではないでしょう。

    まず、「生徒にとっての良い環境とは?」で、出てきた意見として、次のことが挙げられました。

 

「冷暖房の設置をしてほしかった。」「ICT環境の整備があればもっといい学びができたかも!」

 

    これは何も贅沢などではなく、「冷房設備」がないがために熱中症などになってしまうケースもあります。そして、障害などのハンディキャップを抱えた生徒も「ICT」によって、より快適な学びができる可能性もあるのです。これがまた「個性の尊重」にもつながるのではないでしょうか?

    そして、「教師にとって良い環境とは?」では、次のような意見が出てきました。

 

「忙しすぎて教師が学習する時間がない」

「やりたいことはあってもお金がない」

「やりたいことがあっても制度上(入試・学習指導要領など)できない」

 

    「時間がない」というのは、教師の仕事量からもわかるように、本当に教材研究などをする時間などもなく、ましてや生徒一人ひとりを、「個」にフォーカスを当てた教育をしたくてもできないのが現状なのです。授業に関しても、「入試のための」授業と、教師が教えたいその「教科の楽しさ」が乖離していることも「理想」から遠ざけられている1つの要因ですね。

    さて、これらシステムの問題は、(1). 個性を尊重すべき、で述べた「慣習的なシステム」と並ぶもう1つのシステムである「ハード面のシステム」です。これまた苫野先生の説明では、

 

「給特法のようなハード面のシステム」(前掲同書、45頁)

 

    ともあるように、法律などで明確に規定されているシステムのようなものです。こういうシステムは、「慣習的なシステム」のように認識論的に問い直すのでは解消できません。ではどのように変えていくかと言いますと、苫野先生は次のように述べています。

 

「ハードのシステムは、手続きを経て変えていくよう努める必要があります。」(前掲同書、45頁)

 

    もちろんここで必要な手続きとは、「公的な」手続きです。個人の勝手な判断で、変えることは許されていません。だからこそ、「個人では何もできないからどうしようもない」というような考えになってしまいそうになります。しかし、このような変更のために、公的な手続きが必要なシステムも、私たち個人が関心事として議論し、発信していくことで実現されるかもしれません。そういう問題意識を個人個人が持つことで、「この政治家はなんで教育に関する公約がないのだろう」「こういう制度があるのはおかしい」と集団が発信するようになり、そうなれば行政に関わる人たちも見て見ぬ振りをすることができなくなったりもするでしょう。「全く」関われない問題なんかではないのです。ただ、「ハードな」システムですから、結果がすぐに出てこないだけです。少しずつは動いているはずです。

 

(3). 専門家同士の協働

    この項目は、(1). 個性を尊重すべき、での議論と重なるところがあります。「個」に焦点を当てた教育が行われるにつれて、その分非常に細分化するようにもなってきました。もはや、自分の場合であれば、一英語の教員として、生徒全員の「個」に対してきめ細かなアプローチをすることはもはや不可能なのです(というより、本来的に不可能)。となると、必然的に一元的な評価軸から、「多元的な」評価軸への移行の必要性が生じます。ここでは、以下の2つのやり方が考えられるわけです。

 

    (1). 教師がオールマイティに学習して対応できるようにする。

    (2). 専門家同士が分業する。

 

    (1). は既に述べたように、「教師には時間がない」ということからもほぼ不可能に近いです。しかし、だからといって「学ばない」というのも違います。できるかぎり子どものために、理解に努めることは最低限必要なことではあります。ただ、現実的にかんがえると、(2). を促進していく必要があるのかと思います。参加者の中で心理学を専攻している学生から以下のような興味深い意見の共有がありました。

 

「人間の苦手はパラメーターになっていて、そのパラメーターの限界点に達すると、苦手になってしまう。そして、そのパラメーターの限界値は個人差がある。」

 

    これは、本当にあると思います。こういうことを理解することで、より個人を見ることができ、より他分野の専門化と協働しよう、というようにも思えるでしょう。さらに、これに関連した意見では、

 

「この人は国語が得意だから、英語もできるだろう、と評価された。本当は苦手なのに、、、」

 

    こういうことが起きてしまうわけです。苦手のパラメーターの限界値がおそらく低いにも関わらず、得意な国語と同じ量の評価、もしくは期待をされることで、簡単に「苦手」ゾーンへ達してしまうことと思われます。そういった意味でも、他分野の先生や、SSWや、SCに養護教諭の人たちと協働していく必要性があると思われます。それが結果としては、「個性の尊重」にもつながるのですから。

 

まとめ

    さて、今まで「学校教育2.0」での議論の内容を、内田良・苫野一徳『みらいの教育』(武久出版)を参照にしながらまとめていきました。今回の議論では「給特法」などの「ハードな面」には触れるのみで、具体的な議論にはいきませんでしたので、内田良先生の引用はありませんが、先生の「働き方」に対する発信は非常に素晴らしいものです。こちらも合わせてご参照されれば、より深いものとなるのは間違いないと思います。

    イベントに関しては、意見の対立などはあったものの、それぞれが「教育をより良いものにしたい」というのは共通理解としてもっていたと思われます。そして、間違いなくそれぞれが従来、学校教育に対して持っていた価値観(1.0)を、新しい価値観(2.0)へとアップデートすることができたことと思います。主催側としては、本当に申し分のない議論ができ、感謝の言葉しかありません。このように「ありそうでなかった」教育を語る場、のようなものが今後増えていくことを願い、この記事を終わりとします。

    イベントでの議論に関するコメントや、意見などございましたら、お気軽にどうぞ。いつでもお待ちしております。

「精神」でも「身体」でもなく「それ」:二元論を超えて

    この記事では、皆さんも必ず経験したことがあるであろう、何かに「没頭する」ことについて、少し考察を加えてみたいと思う。その際、大いに示唆を与えてくれた書籍は、オイゲン・ヘリゲル著『弓と禅』(角川ソフィア文庫)である。この本は、ドイツ人哲学者であるヘリゲルが、日本滞在中に弓道を通して「禅」の根本へと迫っていく、といった内容である。ここで重要となるのが「考えるのをやめる」ということ、つまり、「無心」になるということである。ヘリゲルの師匠である阿波研造はこのように説く。

 

「あなたは何をしなければならないかと考えてはなりません。どのようにそれをすべきか、あれこれ考えてはなりません」(『弓と禅』「Ⅳ. 稽古の第二段階––離れの課題」、92頁)

 

    この「無心」になるということについて、少しずつ話を進めていこうと思う。そこで、この記事では以下のような流れで話を進めていく。

 

① 「それ」が射る
② 「型」が意味することとは
③ 「精神」と「身体」の二項対立を超えて、同化する「主体」

 

1. 「それ」が射る
    さて、最初のトピックから訳がわからない人が多いと思う。「それ」とは「何」か。弓道をするにあたって、「私」が「的」を射るはずである。しかし、この『弓と禅』では「それ」が射るとされている。事実、ヘリゲルの師匠は、ヘリゲルが初めて「正しい射」を射た時に次のように言っている。

 

「〔……〕というのは、この射はあなたのせいではないからです。この時、あなたは完全に自己を忘れて無心に満を持していました。その時、熟した果実のように、射があなたからこぼれたのです。」(同前、「Ⅶ. 破門事件と無心の離れ」、126頁)

 

    まったくもって理解し難い言葉である。しかし、この言葉にこの記事で考察したいことが詰まっている。まず、私たちが意識しなければならないこと、つまり、なぜこの言葉が理解しづらいのか。ここには、西洋近代的な「精神/身体」という二元論的な考え方が根底に潜んでいることと大きく関係している。西洋近代的な二元論は、自由な意志がある「主体」と、その主体が働きかける「客体」とに分かれている。つまり、行為「する/される」という関係性のもとに成り立っているのである。
    ここから、考えられるのは「私」と「対象」の二つ以外にも、行為に参入してくる「何か」が存在するということである。これがいわゆる「それ」なのである。これは國分功一郎さんも『中動態の世界』の中で述べていることだが、「能動/受動(=する/される)」の関係性だけでは説明できない事柄が存在していることを意味している。
    では、どのようにして「無心」になり、「それ」が射るような状態になることができるのであろうか。我を忘れて行為し、知らず知らずのうちに何かを行為し終えている、没頭している状態とはどのような状態なのであろうか。そこで、次に考えることは「型」についてである。

 

2. 「型」が意味することとは
    私たちは、どうも最近の個人の選択の自由や、金太郎アメを生産するような教育現場を見ていると「型」について否定的なイメージを抱いていると思われる。しかし、今から話す「型」と、これらの「型」は区別して考える必要がある。ただ注意しておいてほしいのは、自由が良くないと主張しているのではなく、無批判に否定される「型」を再考しようということである。それでは、またまた興味深い一節から始めよう。

 

「〔……〕弟子は、まるでそれ以上何も要求されていないかのように、愚直なまでの没頭を課されているようではあるが、何年も経って初めて、自分が完全に使いこなせるようになった形は、もはや束縛とならず、自由になるという経験をするようになる。」(同前、「Ⅵ. 日本の教授法と達人境」、110頁)

 

    これは非常に興味深い。つまり、ある種の「束縛性」のあるものとして考えられている「型(=形)」は、それが使いこなせるようになった時から、「自由」な存在へと変化するのである。ここで注意しなければならないことは、何でもかんでも「型」にはまれば、後々「自由」になれる、ということではないことである。あくまでも何かの「道」に習熟したいと考える場合は、「型」を一度経なければいけないということである。
    そこで、問わなければいけないのは、「『型』はどのように習得されるのか」ということである。ものすごく雑に述べてしまえば「反復すべし」である。しかし、それでは反感を買うので、詳しく見ていくことにする。では、この言葉を読んでいただきたい。

 

「初心者たることと達人たることの二つの段階の間には、いろいろな事がある長年のたゆまぬ修練がある。禅の影響の下に、技量は精神的になる。しかし修行者自身は、段階から段階への内的な克服において、より自由になり、変容している。」(同前、「Ⅹ. 剣道と禅との関係」、156頁)

 

    これは、「反復(=修行)」して、「習慣化(=内面化)」することと似たようなものではないか。では、具体的にはどういうことなのであろうか。ここで、参考になるのが、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズである。そして、ドゥルーズの研究者である國分功一郎さんは、ドゥルーズを参考に「反復」と「習慣」について以下のようにまとめている(『ドゥルーズの哲学原理』「第Ⅲ章 思考と主体性」、91頁)。

 

「行動としての、かつ視点としての反復は、交換不可能な、置換不可能な或る特異性に関わる。」(『差異と反復〔上〕』「序論 反復と差異」、21頁)

 

「習慣は、反復から、何か新しいもの、すなわち(最初は一般性として定位される)差異を抜き取る。習慣は、その本質においてcontraction〔コントラクテすること〕である。」(同前、「第二章 それ自身へ向かう反復」、207頁)

 

    毎回毎回異なる行動(体調や周りの状況などを考慮すると、「二度」と同じ状況は存在することができない)から、「習慣」を形成することに必要がないであろう新しいこと、つまり「差異」を除くことで、「習慣」が形成される。そして、「習慣」として形成された行動は、無意識下でも行えるようになるのである。つまり、「無心」になることができるのである。
    これで、「無心」となり、「それ」が働きかけてくること、「無心」になるための「型」、と話を終えた。最後は、最大の謎であった「それ」について、詳しく迫っていきたいと思う。

 

3. 「精神」と「身体」の二項対立を超えて、同化する「主体」
    最初に引用した「『それ』が射る」状況について、詳しい説明をしていなかったので、最後は「それ」が働いている状況について詳しく見ていきたいと思う。

 

「蜘蛛は、舞いながら巣を張りますが、その巣にかかる蠅が存在するということを知りません。蠅は陽射しの中で何も考えずに舞うように飛んでいて、蜘蛛の巣に捕えられますが、自分に何が生じるのか知りません。しかし、この両者を通じて、『それ』が舞っているのです。そして内的なことと外的なものは、この舞いにおいて一つなのです。」(『弓と禅』「Ⅷ. 稽古の第三段階––的前射––射裡見性」、134頁)

 

    この引用を読んでもらうとわかると思うが、行為「する/される」の境界が完全になくなって、一体化している。いや、一体化しているというよりは、広大な自然、主体を超越する存在の中へ還元されていると考えた方がいいかもしれない。
    さて、ここから重要なことを推測することができる。すなわち、「物事が成される、ということは必ずしも、意図する必要はない」ということである。ヘリゲルの師匠は次のように述べている。

 

「正しい道は〔……〕目的がなく、意図がないものです。あなたが、的を確実に中てるために、矢を放すのを習おうと意欲することに固執すればするだけ、それだけ一方もうまくいかず、それだけ他方も遠ざかるのです。あなたがあまりにも意志的な意志を持っていることが、あなたの邪魔になっています。意志で行わないと、何も生じないと、思い込んでいます」(同前、「Ⅳ. 稽古の第二段階––離れの課題」、95-96頁)

 

    この言葉が、今日のこの記事で一番強調したいところである。重要なところなので、今までの話を整理しながら考えていこう。まず、何か習慣化された行為をする際には「私」と或る「対象」の二者ではなく、「それ」が働きかけていることを確認した。そして、その習慣化された行為を行うためには、「無心」になることが必要であると説明した。その「無心」になるための手段としての「型」による内面化、習慣化をドゥルーズの「習慣」についての考えを参考にしながら検討した。では、最初の「それ」は一体私たちをどこへ向かわせるのか。それこそまさに、ヘリゲルの師匠である阿波研造が述べるところの「正しい道」であり、「向かうべく所」へと行くのである。

 

    以上が、この記事で考察した「没頭する」ということである。無意識的に頭や身体が働き、何か行為をする。その時は、意志的な意志を用いることなくとも、「自然と」行為を行うのである。その時に働いているのは「私」でもなく、「私」をとりまく「環境」でもない。なぜなら、「それ」が働いているからである。
    最後に一応の結論として述べておきたいのは、行動には必ずしも「目的」が伴わないことである。本来「目的」と考えられていたものは、何かに没頭し、得られる結果の確認でしかなく、それ自体が目的となることはない。つまり、「手段」なのである。「何かのために」何かに没頭するのではなく、没頭した結果、「それ」が働き、気付いた時には「目的」が達成されていたりするものである。

 

    あくまで、私自身が理解した範疇で記事を書いていますので、もし理解が間違っているようでしたら、識者の方はご指摘お願い致します。

 

【参考文献】

オイゲン・ヘリゲル著、魚住孝至訳・解説(2017)『新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録』角川ソフィア文庫

國分功一郎(2013)『ドゥルーズの哲学原理』岩波現代全書

G・ドゥルーズ著、財津理訳(2007)『差異と反復〔上〕』河出文庫