メソテース μεσοτης

読んだ本をもとに少し考察をしています。主に思想、哲学、教育に関連した本をもとに執筆していきます。読みたい本など、読書会のお誘いも随時受け付けております。

「精神」でも「身体」でもなく「それ」:二元論を超えて

    この記事では、皆さんも必ず経験したことがあるであろう、何かに「没頭する」ことについて、少し考察を加えてみたいと思う。その際、大いに示唆を与えてくれた書籍は、オイゲン・ヘリゲル著『弓と禅』(角川ソフィア文庫)である。この本は、ドイツ人哲学者であるヘリゲルが、日本滞在中に弓道を通して「禅」の根本へと迫っていく、といった内容である。ここで重要となるのが「考えるのをやめる」ということ、つまり、「無心」になるということである。ヘリゲルの師匠である阿波研造はこのように説く。

 

「あなたは何をしなければならないかと考えてはなりません。どのようにそれをすべきか、あれこれ考えてはなりません」(『弓と禅』「Ⅳ. 稽古の第二段階––離れの課題」、92頁)

 

    この「無心」になるということについて、少しずつ話を進めていこうと思う。そこで、この記事では以下のような流れで話を進めていく。

 

① 「それ」が射る
② 「型」が意味することとは
③ 「精神」と「身体」の二項対立を超えて、同化する「主体」

 

1. 「それ」が射る
    さて、最初のトピックから訳がわからない人が多いと思う。「それ」とは「何」か。弓道をするにあたって、「私」が「的」を射るはずである。しかし、この『弓と禅』では「それ」が射るとされている。事実、ヘリゲルの師匠は、ヘリゲルが初めて「正しい射」を射た時に次のように言っている。

 

「〔……〕というのは、この射はあなたのせいではないからです。この時、あなたは完全に自己を忘れて無心に満を持していました。その時、熟した果実のように、射があなたからこぼれたのです。」(同前、「Ⅶ. 破門事件と無心の離れ」、126頁)

 

    まったくもって理解し難い言葉である。しかし、この言葉にこの記事で考察したいことが詰まっている。まず、私たちが意識しなければならないこと、つまり、なぜこの言葉が理解しづらいのか。ここには、西洋近代的な「精神/身体」という二元論的な考え方が根底に潜んでいることと大きく関係している。西洋近代的な二元論は、自由な意志がある「主体」と、その主体が働きかける「客体」とに分かれている。つまり、行為「する/される」という関係性のもとに成り立っているのである。
    ここから、考えられるのは「私」と「対象」の二つ以外にも、行為に参入してくる「何か」が存在するということである。これがいわゆる「それ」なのである。これは國分功一郎さんも『中動態の世界』の中で述べていることだが、「能動/受動(=する/される)」の関係性だけでは説明できない事柄が存在していることを意味している。
    では、どのようにして「無心」になり、「それ」が射るような状態になることができるのであろうか。我を忘れて行為し、知らず知らずのうちに何かを行為し終えている、没頭している状態とはどのような状態なのであろうか。そこで、次に考えることは「型」についてである。

 

2. 「型」が意味することとは
    私たちは、どうも最近の個人の選択の自由や、金太郎アメを生産するような教育現場を見ていると「型」について否定的なイメージを抱いていると思われる。しかし、今から話す「型」と、これらの「型」は区別して考える必要がある。ただ注意しておいてほしいのは、自由が良くないと主張しているのではなく、無批判に否定される「型」を再考しようということである。それでは、またまた興味深い一節から始めよう。

 

「〔……〕弟子は、まるでそれ以上何も要求されていないかのように、愚直なまでの没頭を課されているようではあるが、何年も経って初めて、自分が完全に使いこなせるようになった形は、もはや束縛とならず、自由になるという経験をするようになる。」(同前、「Ⅵ. 日本の教授法と達人境」、110頁)

 

    これは非常に興味深い。つまり、ある種の「束縛性」のあるものとして考えられている「型(=形)」は、それが使いこなせるようになった時から、「自由」な存在へと変化するのである。ここで注意しなければならないことは、何でもかんでも「型」にはまれば、後々「自由」になれる、ということではないことである。あくまでも何かの「道」に習熟したいと考える場合は、「型」を一度経なければいけないということである。
    そこで、問わなければいけないのは、「『型』はどのように習得されるのか」ということである。ものすごく雑に述べてしまえば「反復すべし」である。しかし、それでは反感を買うので、詳しく見ていくことにする。では、この言葉を読んでいただきたい。

 

「初心者たることと達人たることの二つの段階の間には、いろいろな事がある長年のたゆまぬ修練がある。禅の影響の下に、技量は精神的になる。しかし修行者自身は、段階から段階への内的な克服において、より自由になり、変容している。」(同前、「Ⅹ. 剣道と禅との関係」、156頁)

 

    これは、「反復(=修行)」して、「習慣化(=内面化)」することと似たようなものではないか。では、具体的にはどういうことなのであろうか。ここで、参考になるのが、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズである。そして、ドゥルーズの研究者である國分功一郎さんは、ドゥルーズを参考に「反復」と「習慣」について以下のようにまとめている(『ドゥルーズの哲学原理』「第Ⅲ章 思考と主体性」、91頁)。

 

「行動としての、かつ視点としての反復は、交換不可能な、置換不可能な或る特異性に関わる。」(『差異と反復〔上〕』「序論 反復と差異」、21頁)

 

「習慣は、反復から、何か新しいもの、すなわち(最初は一般性として定位される)差異を抜き取る。習慣は、その本質においてcontraction〔コントラクテすること〕である。」(同前、「第二章 それ自身へ向かう反復」、207頁)

 

    毎回毎回異なる行動(体調や周りの状況などを考慮すると、「二度」と同じ状況は存在することができない)から、「習慣」を形成することに必要がないであろう新しいこと、つまり「差異」を除くことで、「習慣」が形成される。そして、「習慣」として形成された行動は、無意識下でも行えるようになるのである。つまり、「無心」になることができるのである。
    これで、「無心」となり、「それ」が働きかけてくること、「無心」になるための「型」、と話を終えた。最後は、最大の謎であった「それ」について、詳しく迫っていきたいと思う。

 

3. 「精神」と「身体」の二項対立を超えて、同化する「主体」
    最初に引用した「『それ』が射る」状況について、詳しい説明をしていなかったので、最後は「それ」が働いている状況について詳しく見ていきたいと思う。

 

「蜘蛛は、舞いながら巣を張りますが、その巣にかかる蠅が存在するということを知りません。蠅は陽射しの中で何も考えずに舞うように飛んでいて、蜘蛛の巣に捕えられますが、自分に何が生じるのか知りません。しかし、この両者を通じて、『それ』が舞っているのです。そして内的なことと外的なものは、この舞いにおいて一つなのです。」(『弓と禅』「Ⅷ. 稽古の第三段階––的前射––射裡見性」、134頁)

 

    この引用を読んでもらうとわかると思うが、行為「する/される」の境界が完全になくなって、一体化している。いや、一体化しているというよりは、広大な自然、主体を超越する存在の中へ還元されていると考えた方がいいかもしれない。
    さて、ここから重要なことを推測することができる。すなわち、「物事が成される、ということは必ずしも、意図する必要はない」ということである。ヘリゲルの師匠は次のように述べている。

 

「正しい道は〔……〕目的がなく、意図がないものです。あなたが、的を確実に中てるために、矢を放すのを習おうと意欲することに固執すればするだけ、それだけ一方もうまくいかず、それだけ他方も遠ざかるのです。あなたがあまりにも意志的な意志を持っていることが、あなたの邪魔になっています。意志で行わないと、何も生じないと、思い込んでいます」(同前、「Ⅳ. 稽古の第二段階––離れの課題」、95-96頁)

 

    この言葉が、今日のこの記事で一番強調したいところである。重要なところなので、今までの話を整理しながら考えていこう。まず、何か習慣化された行為をする際には「私」と或る「対象」の二者ではなく、「それ」が働きかけていることを確認した。そして、その習慣化された行為を行うためには、「無心」になることが必要であると説明した。その「無心」になるための手段としての「型」による内面化、習慣化をドゥルーズの「習慣」についての考えを参考にしながら検討した。では、最初の「それ」は一体私たちをどこへ向かわせるのか。それこそまさに、ヘリゲルの師匠である阿波研造が述べるところの「正しい道」であり、「向かうべく所」へと行くのである。

 

    以上が、この記事で考察した「没頭する」ということである。無意識的に頭や身体が働き、何か行為をする。その時は、意志的な意志を用いることなくとも、「自然と」行為を行うのである。その時に働いているのは「私」でもなく、「私」をとりまく「環境」でもない。なぜなら、「それ」が働いているからである。
    最後に一応の結論として述べておきたいのは、行動には必ずしも「目的」が伴わないことである。本来「目的」と考えられていたものは、何かに没頭し、得られる結果の確認でしかなく、それ自体が目的となることはない。つまり、「手段」なのである。「何かのために」何かに没頭するのではなく、没頭した結果、「それ」が働き、気付いた時には「目的」が達成されていたりするものである。

 

    あくまで、私自身が理解した範疇で記事を書いていますので、もし理解が間違っているようでしたら、識者の方はご指摘お願い致します。

 

【参考文献】

オイゲン・ヘリゲル著、魚住孝至訳・解説(2017)『新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録』角川ソフィア文庫

國分功一郎(2013)『ドゥルーズの哲学原理』岩波現代全書

G・ドゥルーズ著、財津理訳(2007)『差異と反復〔上〕』河出文庫