メソテース μεσοτης

読んだ本をもとに少し考察をしています。主に思想、哲学、教育に関連した本をもとに執筆していきます。読みたい本など、読書会のお誘いも随時受け付けております。

「学校教育2.0」から考える『みらいの教育』

    皆さん、お久しぶりです。書きたいネタはあるものの、なかなか全体の構想が練れずに約2ヶ月が経過してしまいました。「モノ」と「精神性」の関係性についてや、テシラヂオのコメントへの応答「主客未分」状態について、「消費」から考える教育、など中途半端に書き進められています。しかしまあ、ゆっくり、気負いせず書き進めたいと思ってます。

 

    今回の記事のテーマは、先ほどのどれでもなく、内田良・苫野一徳『みらいの教育』(武久出版)を読んで少し考えていきたいと思ってます。というのも、先日、教育イベント「学校教育2.0」を実施しまして、前掲書に書かれていたことと似たような内容になったのでは?と思ったからです。この「学校教育2.0」という教育イベントは、自分が2月末に所属させてもらった「Teacher Aide」広島支部の活動の一環です。どういうイベントだったのか説明するまえに、「Teacher Aide」についての説明を少し。教育に関係ある人に限らず、あらゆる人にも直接/間接的に関係があることだと思っていますので、ぜひ。《団体について詳しくはこちらを参照ください「Teacher Aide HP

 

「Teacher Aide」とは?

    「Teacher Aide」という学生団体は、「教員一人ひとりを幸せにする」という目標を最終的な目標として掲げている「愛」に溢れる学生団体です。この最終目標を達成するために、3つの下位目標を設定し活動しております。

    まず1つ目は、「(1). 労働環境の整備」です。

    「給特法」や「変形労働時間制」といった少し専門的(?)なものから、膨大な学校業務、土日含める部活動の顧問指導などです(学校業務や部活動の是非などについては別途議論する必要があると思いますが、ここではそこまでは踏み込みません)。

    次は、「(2). 教員(志望学生)の意識改革」です。

    これは、1つ目の下位目標とも関連するのですが、特に学生は「教員の労働環境はブラック」という漠然としたイメージは抱いてはいるものの、具体的にはどういった原因で、何がブラックなのかイマイチ把握しきれていない面が多いと思います。そういうことが相まって「教員とは忙しいもの」という認識のまま現場に出るというのが現状ではないでしょうか(もちろん、教員は忙しい、というより仕事全般忙しいと思う、が今の状況は異常だと思います)。そういった現状の意識改革です。

    そして最後は、「(3). 教育を社会の関心事に」です。

    よく友人に言われるのが、「教員って大変だね。僕には絶対にできない。」といった内容のことなのですが、ここに含意されていることは2つあると思われます。1つは、「本当に大変そう」という意味で、2つ目は「教育は教員がすること」という意味なのですが、両者に共通するのは「(言い方が悪くなりますが)他人事」ということなんです。そうじゃなくて、教育っていうのは社会全体で行なっていくもので、決して学校内「だけ」で行われるものではありません。本当にざっくり言うと「敷居は低くあるべき」ものなんです。こういうことを発信していきます。

 

「学校教育2.0」とは?

    さて、「Teacher Aide」について概観したところで、本日の主題である「学校教育2.0」についての説明です。このイベントの主旨としては、「教育をより身近に」、そして「教育に対する価値観のアップデート」です。『みらいの教育』の中で、苫野先生も以下のように述べております。

 

「教育の「現場」は、「学校現場」だけじゃないのだと。教育はとんでもなく広範な世界です。学校現場だけでなく、行政現場もあれば、子育て現場もある。社会教育の現場もあれば、学問現場もある。そうした様々な「現場」の知見を生かし、協働し合うことが大切なのだ」(『みらいの教育』「第3章」37頁)

 

    これが、「教育」をより身近にすること、と同時に「教育を社会の関心事に」することであると思っています。そして実際、参加者は、現職の教員や、教職を取っている学生、教職をとっていない学生などがおり、多岐にわたるものでした。一応(と付けるのは、こちらの流れに自然と沿うように議論が進んだため)イベントの流れは、以下のようになります。

 

    (1). 教育とは??誰が、どこでするの??

    (2). 自分たちの学校での経験から「良かった/悪かった」ことを考えよう

    (3). 理想の教育ってなんだろう??

    (4). 教育の現状ってどうなっているのだろう??

    (5). どうすれば理想に近づけるだろうか??

 

    この流れの「予定」でしたが、議論が自然と進んだため、というよりも「理想」と「現実」が複雑に関係し合っていすぎて、議論として分けることができませんでした。ですが、断然自然な流れの議論の方が白熱しており、純粋に面白かった(主催側の自分も参加したかったです)ので間違ってはいない判断だと思っております。それでは、議論の内容を見ていきましょう。

 

議論の内容

    さて、議論の内容なのですが、流れを追いながら確認をしていると、「非常に」長い文章になりますので、議論の中でも重複したポイントをピックアップして説明していきたいと思います。

 

    (1). 個性の尊重をすべき

    (2). 環境の整備(生徒/教師)

    (3). 専門家同士の協働

 

    以上の3つのポイントが議論の中でも際立っていたので、これを基に考えていきたいとおもいます。あと、これら3つも複雑に絡み合っているので、上手くまとめれるかは分かりませんが努力します。

 

(1). 個性を尊重すべき

    この論点が出てきたのは、必然であるように思います。やはり戦後、所謂「知識偏重」型の教育がなされ、均質化された学生の大量生産というのが実際にありました。それに反するかのように、「個」に焦点を当てるような改革がここ30年くらいで進められてきています。だし、やはりどんな個人でも輝けるようになりたい、とみんな思うのでしょう。自分もそうです。教師はその「隠された個の才能」を発掘することができるかもしれないのです。話し合いの中で出てきた面白い例を挙げてみます。

 

「小学校の時に、〇〇博士、と褒めてくれた。」

 

    というものです。これは、例えばある生徒が「漢字が得意」だとしたら、「漢字博士」で、魚に詳しければ「魚博士」といったようなものです。まさに、「個」の才能を見出し、褒めることで、尊重することで、生徒の小さな自己肯定感のようなものになっているように思えます。そして、さらに面白い例として出てきたものは、

 

「多動性の傾向を持つ子ども(いつも何かを叩いている)に、音楽の先生が太鼓を叩かせてみた。」

 

    これもまた、「個性の尊重」でしょうね。教室の机に座っている間は「落ち着きがない」と捉えられてしまいかねないですが、「音楽という場所」では、それがキラリと輝くのです。このように、自分が輝ける場所を自覚するのもまた、自己肯定感につながるのだと思います。

    と、同時にこのような意見も出てきました。

 

「個性を尊重するだけでは、社会に出て食べていけない。その子が社会に出て困ってしまうかもしれない。教室という集団に属する以上、最低限集団内でのルールを守るように我慢しなければいけないと思う。」

 

    なるほど、今までの「個性の尊重」とは少し対立するような意見ですね。しかし、「その子のため思って」というような最終的な地点は同じであると思います。社会で、集団で生きていく以上、ある程度のルールや規律は受け入れなければいけない、という意見はあってしかるべきものだと思います。ただ、この意見の裏に隠されているのは、「慣習的なシステム」であると思います。苫野先生によると、「慣習的なシステム」とは、

 

「法で規定されているわけではない、〔……〕「すべての教師は部活動顧問をやらねばならない」というのは、慣習的なシステムですね。」(前掲同書、45頁)

 

    この文脈における「慣習的なシステム」とは、「教室では多動性を“ある程度”我慢しなければならない」というものであると思います。果たして本当にそうなのでしょうか?これに対する意見としては、次のものがありました。

 

「社会ではこう、という箱を当てはめて個性を制限するのではなく、その個性自体が発揮できるの社会になるべきだ。」

 

    実にいい議論の流れですね。そもそもある子の個性が発揮できるかどうかを、社会の基準に照らし合わせるのではなく、その個人の個性を基に作られる社会こそが理想だと、いうことです。この議論に関しては、今現在で、というよりもこれからも議論される問題でもあるので、「答え」など出てくることはありません。しかし、より良い未来への問題提示としては非常に有意なものであると思います。苫野先生もこのように言っています。

 

「慣習的なシステムを変えるには、まず、一体何のためにそれをやっているのかを問い直すことが重要です。〔……〕そうすると、そのシステムのおかしさが見えてくるかもしれません。このシステムのせいで苦しんでいる先生や子どもたちがいることも、見えてくるかもしれません。そこで次に、もっと皆が幸せになれるようなビジョンと、そこへ至るまでのロードマップを描いていく。」(前掲同書、46頁)

 

    「本当に我慢すべきなのか」「この集団のルール、規律は本当に正しいのか」こういったことを考えていくことで、また違った「個性の尊重の仕方」が見えてくるかもしれません。今の基準の範囲内で、個性の尊重をする次元から、その基準そのものを疑うことで、さらなる個性の尊重のされ方があるように思われます。

 

(2). 環境の整備(生徒/教師)

    この議論には2つの対象が含まれています。すなわち、「生徒」にとってと、「教師」にとっての環境です。当然、学校は生徒だけでも、教師だけでもなく、生徒・教師・事務員・給食の人・SSW・SCなど非常に多くの人がいる場所です。これら全員にとって「最低限」いい環境を目指すことは何も悪いことではないでしょう。

    まず、「生徒にとっての良い環境とは?」で、出てきた意見として、次のことが挙げられました。

 

「冷暖房の設置をしてほしかった。」「ICT環境の整備があればもっといい学びができたかも!」

 

    これは何も贅沢などではなく、「冷房設備」がないがために熱中症などになってしまうケースもあります。そして、障害などのハンディキャップを抱えた生徒も「ICT」によって、より快適な学びができる可能性もあるのです。これがまた「個性の尊重」にもつながるのではないでしょうか?

    そして、「教師にとって良い環境とは?」では、次のような意見が出てきました。

 

「忙しすぎて教師が学習する時間がない」

「やりたいことはあってもお金がない」

「やりたいことがあっても制度上(入試・学習指導要領など)できない」

 

    「時間がない」というのは、教師の仕事量からもわかるように、本当に教材研究などをする時間などもなく、ましてや生徒一人ひとりを、「個」にフォーカスを当てた教育をしたくてもできないのが現状なのです。授業に関しても、「入試のための」授業と、教師が教えたいその「教科の楽しさ」が乖離していることも「理想」から遠ざけられている1つの要因ですね。

    さて、これらシステムの問題は、(1). 個性を尊重すべき、で述べた「慣習的なシステム」と並ぶもう1つのシステムである「ハード面のシステム」です。これまた苫野先生の説明では、

 

「給特法のようなハード面のシステム」(前掲同書、45頁)

 

    ともあるように、法律などで明確に規定されているシステムのようなものです。こういうシステムは、「慣習的なシステム」のように認識論的に問い直すのでは解消できません。ではどのように変えていくかと言いますと、苫野先生は次のように述べています。

 

「ハードのシステムは、手続きを経て変えていくよう努める必要があります。」(前掲同書、45頁)

 

    もちろんここで必要な手続きとは、「公的な」手続きです。個人の勝手な判断で、変えることは許されていません。だからこそ、「個人では何もできないからどうしようもない」というような考えになってしまいそうになります。しかし、このような変更のために、公的な手続きが必要なシステムも、私たち個人が関心事として議論し、発信していくことで実現されるかもしれません。そういう問題意識を個人個人が持つことで、「この政治家はなんで教育に関する公約がないのだろう」「こういう制度があるのはおかしい」と集団が発信するようになり、そうなれば行政に関わる人たちも見て見ぬ振りをすることができなくなったりもするでしょう。「全く」関われない問題なんかではないのです。ただ、「ハードな」システムですから、結果がすぐに出てこないだけです。少しずつは動いているはずです。

 

(3). 専門家同士の協働

    この項目は、(1). 個性を尊重すべき、での議論と重なるところがあります。「個」に焦点を当てた教育が行われるにつれて、その分非常に細分化するようにもなってきました。もはや、自分の場合であれば、一英語の教員として、生徒全員の「個」に対してきめ細かなアプローチをすることはもはや不可能なのです(というより、本来的に不可能)。となると、必然的に一元的な評価軸から、「多元的な」評価軸への移行の必要性が生じます。ここでは、以下の2つのやり方が考えられるわけです。

 

    (1). 教師がオールマイティに学習して対応できるようにする。

    (2). 専門家同士が分業する。

 

    (1). は既に述べたように、「教師には時間がない」ということからもほぼ不可能に近いです。しかし、だからといって「学ばない」というのも違います。できるかぎり子どものために、理解に努めることは最低限必要なことではあります。ただ、現実的にかんがえると、(2). を促進していく必要があるのかと思います。参加者の中で心理学を専攻している学生から以下のような興味深い意見の共有がありました。

 

「人間の苦手はパラメーターになっていて、そのパラメーターの限界点に達すると、苦手になってしまう。そして、そのパラメーターの限界値は個人差がある。」

 

    これは、本当にあると思います。こういうことを理解することで、より個人を見ることができ、より他分野の専門化と協働しよう、というようにも思えるでしょう。さらに、これに関連した意見では、

 

「この人は国語が得意だから、英語もできるだろう、と評価された。本当は苦手なのに、、、」

 

    こういうことが起きてしまうわけです。苦手のパラメーターの限界値がおそらく低いにも関わらず、得意な国語と同じ量の評価、もしくは期待をされることで、簡単に「苦手」ゾーンへ達してしまうことと思われます。そういった意味でも、他分野の先生や、SSWや、SCに養護教諭の人たちと協働していく必要性があると思われます。それが結果としては、「個性の尊重」にもつながるのですから。

 

まとめ

    さて、今まで「学校教育2.0」での議論の内容を、内田良・苫野一徳『みらいの教育』(武久出版)を参照にしながらまとめていきました。今回の議論では「給特法」などの「ハードな面」には触れるのみで、具体的な議論にはいきませんでしたので、内田良先生の引用はありませんが、先生の「働き方」に対する発信は非常に素晴らしいものです。こちらも合わせてご参照されれば、より深いものとなるのは間違いないと思います。

    イベントに関しては、意見の対立などはあったものの、それぞれが「教育をより良いものにしたい」というのは共通理解としてもっていたと思われます。そして、間違いなくそれぞれが従来、学校教育に対して持っていた価値観(1.0)を、新しい価値観(2.0)へとアップデートすることができたことと思います。主催側としては、本当に申し分のない議論ができ、感謝の言葉しかありません。このように「ありそうでなかった」教育を語る場、のようなものが今後増えていくことを願い、この記事を終わりとします。

    イベントでの議論に関するコメントや、意見などございましたら、お気軽にどうぞ。いつでもお待ちしております。