メソテース μεσοτης

読んだ本をもとに少し考察をしています。主に思想、哲学、教育に関連した本をもとに執筆していきます。読みたい本など、読書会のお誘いも随時受け付けております。

「知識」と「行動」:ノブレス・オブリージュ

    皆さんこんばんは、私事ではありますが、本日、3/22(金)に大学院を修了しました。この2年間本当に学びたいこと、そして身にしみて学習したこと、様々あります。ここにその全てを書いていると、それだけで終わってしまいそうなので、今日は自分が修士2年目の後半の時期に特に考えるようになったことについて書いていきたいと思います。ですので、読んだ本をベースに、というよりは自分の経験を基に書いていきたいと思いますので、ご了承を。

 

    さて、タイトルからも分かるように、今回の記事は「知識」と「行動」についてです。そして、自分にとってすごくタイムリーなことでもあったのですが、それに関連して「ノブレス・オブリージュ」についてです。これは自分の友人と話していたし、何より卒業式の学長の式辞でこの「ノブレス・オブリージュ」がでてきたので。

    まずは、「ノブレス・オブリージュってなんのこと??」って人のために、少し説明させていただきますね。非常に重要なことですので、知っていて損はないかと思います。

 

ノブレス・オブリージュ [noblese oblige] とは、直訳すると「高貴さは(義務を)強制する」を意味し、一般的に財産、権力、社会的地位の保持には責任が伴うことを指す。」(Wikipedia, https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ノブレス・オブリージュ, final access 2019/3/22, 22:52)

 

    ここで言う「義務」とは非常に広義なもので、様々な場面に適用されるものであるので、別段「これ!」というような定義はなくても大丈夫だと思います。もっと詳しく言うと、「従うべき規範」とでも捉えてもらっていて問題はないかと思います。

 

    では、その「従うべき規範」とは一体何のことなのか??それが今回の記事の主題でもあります。ざっくり言ってしまうと「知識」ですね。それ(ノブレス・オブリージュ)を通して「振舞われること」が「行動」となります。

 

    皆さんの中にも、「知識はあるけど、行動に移せていない」や「行動がすべて!知識はついてくるもの!」といったように考えている人はいると思います。後者の方は、言ってしまえば「考えるより先に行動!」って人ですね。つまり、「行動>知識」の人です。一方で、前者の方は「行動<知識」の人となります(このように二元論化するのは好きじゃないですが、分かりやすくするために)。自分は生粋の前者タイプ、つまり「知識を行動に結びつけることができていない」人です。前者にしろ、後者にしろ、もちろんこのように2分割できるものではないくらいに複雑なものですが、「知識」と「行動」、この両者の結びつきについて、先程話した「ノブレス・オブリージュ」を通して考えていきましょう。簡単ではありますが、今回の記事のアウトラインは以下の通りとなっております。

 

(1). ノブレス・オブリージュ、「従うべき規範」とは?

(2). 知識「か」行動ではなく、知識「と」行動

(3). 精神的な変容には、身体的な変容が不可欠である。

 

    この3つを軸に話を進めていきましょう。最後の (3). 精神的な変容には、身体的な変容が不可欠である、というのは、 スピノザ『エチカ』をもとに話していきたいと思っております。簡単に説明すると、精神と身体は独立に存在しているのではなく、お互いが複雑に絡み合って相互に影響を及ぼし合っているという主旨のものです。ですから、新たな「知識」を学ぶことでアップデートされる場合もありますが、大規模なアップデートには「身体的な」変容、つまり「身に染みて分かること(腑に落ちる)」ことも必要なことを述べておきましょう。

 

(1). ノブレス・オブリージュ、「従うべき規範」とは?

    先程も述べたように、「従うべき規範」とは、「知識」のことです。ではどんな知識なのか?もっと詳しく言うと、「倫理的・社会的・(各分野の)専門的」な知識のことだと思っています。でもまあ、これらに限らず、スポーツにしても武道にしても「型(形 [form])」なるものが存在していて、これもその一種だと思っております(「型」に関しては、記事「「精神」でも「身体でもなく「それ」:二元論を超えて」〔https://ts-in4dents.hatenablog.com/entry/2019/01/27/005558〕で述べておりますので詳しくはこちらを参照ください)。

 

    こんな少し堅苦しいものだけなく、もっと広げて、他人の思想とか、友人のカッコいい考え方、のようなものも含まれていいのではないかとも思っております。もちろん「イコール関係」で結んでしまうのではなくて、入り口と捉えてもらえばと思います。つまり、そういう身近な存在から、本来的な意味のノブレス・オブリージュへと近づければと思っています。

 

    私たちは、誰しもが「憧れとする対象」を抱いていることと思います。もしくは、「正しいとする信念」を抱いている人もいるかと思います。最終的にはこれらが所謂「ノブレス・オブリージュ」となるのではないかと思っています。なぜなら、この「」の中身がわたしたちの行動に与える影響というのは絶大なものであるからです。例えば、以下のようなものがあります。

 

イチローの生き方は素晴らしい、私もこのように生きたい」

「差別は正しくない。だから、私たちは多様性を認め考えるべきだ。」

 

    のように、これらに限らず様々なものがあるかと思います。これらを考え、自らの思考の内に持つことで、自らの行動を見直し、行動へと移していくのです。このように、私たちの行動に影響を与える「メタ的な」ものが「従うべき規範」であることがわかります。次の節では、その「従うべき規範(=知識)」と「行動」の関係性に話を広げていきたいと思います。

 

(2). 知識「か」行動ではなく、知識「と」行動

    さて、自分は当初、知識が身につけば身につくほど、賢い人になり、正しい行動をするものだと勘違いしておりました。勘違いというのも、2つの意味で勘違いしていました。

 

    1. 知識がある人が賢いとは限らない。

    2. 知識の量が正しい選択を促すのではなく、

        知識がもたらす義務(ノブレス・オブリージュ)が正しい行動を生む。

 

    以上の2つの意味で私は、少し勘違いをしておりました。補足説明を加えますと、「賢さ」の定義まで話が広がってくるのでそこまで詳しく述べませんが、「賢さ」を規定するものは何も「知識量」だけではない、ということです。勘違いと考える理由として、賢さには「想像/創造力」「行動力」「批判力」といったように様々な要因があり、それらが総じて「賢さ」なるものを規定していると考えるからです。

 

    そして、2つ目の点に関しては、義務も行動に移さなければ意味をなさない、ということです。どれだけ「信念」を抱いていようが、他人に見える形で表象しなければ分かりません。つまり、行動が必要となってくるのです。では、正しいとされている信念を、行動に移すことでそれは「義務を果たした」ということになるのか?

    答えは「NO」であると思います。さらに説明を加えますと、義務というのは「果たした」というような過去形で表されるものではなく、「果たし続ける」というような「現在進行形」で語られるべきものであると思うようになりました。つまり、終わりなどない、ということです。

 

    人間誰しも、影響を与える人やモノ、出来事に出会った時は、動機付けされるものだと思っています。そして、その最初の動機付けのエネルギーは凄まじいです。ですので、何事も影響を受けた「最初の一回」は、できるものなのです(実際にこのブログも最初の記事を書くのはできたが、そこからがキツイ)。人間だから、面倒なこと、困難なことは避けたくなる傾向があり、楽な方へ楽な方へと流されていってしまいます。ここに私が、知識「か」行動、というように分けて考えたくない理由があります。つまり、「知識に基づいて行動したら、それでおしまい」というようなことです。

 

    常に、「知識→行動→知識→行動....」というように、自身をこの渦中へと位置付けたいと思っております。これこそが「ノブレス・オブリージュ」なのではないかとも思っております。ただ、やはり、なかなか自分を律して困難な方面へ自分を正していくことは難しいです。「強制力」のようなものを持ってして律しないことには、簡単に楽な方へと流されてしまいます。ここでは、どれだけ素晴らしい人の思想、信念などをもってしても難しいところがあると思っています。その理由はやはり、知識と行動が分けられた存在なのではなく、知識「と」行動、というように相互包摂の関係性にあることにあります。ですので、知識は知識でアップデートされるのではなく、行動も知識をアップデートする、むしろ「行動の方が」知識をアップデートできる可能性をより多く秘めていることを次の節で説明していきたいと思います。

 

(3). 精神的な変容には、身体的な変容が不可欠である。

    いよいよ最後の節となりました。この節では、知識と行動の両者が複雑に絡み合っていることを、スピノザの主張を基に話を進めていきたいと思います。また、自分がずっと悩んでいたことをより身近な例としてあげると、より理解が深まるとも思います。

 

「頭ではわかっているのに、行動に移せない」

「行動に移せても、継続できない」

 

    主にこれら2つが自分の悩みです。この2つの問題って、自分の「意志の弱さ」問題なのでしょうか。確かに、意志の弱さからこのような悩みに繋がっているとも言えます。もちろんその通りで、「意志が弱いからそんなことになるんだ!意志を強く持て!」と言ってくる人には、反論できないと思っておりますし、それは正しいと思います。しかし、今回の焦点は、「いかにして意志を強く持てるのか」ということにあります。つまり、いかに「受動的な存在」から「能動的な存在」になれるのか、ということです。この記事に沿って言い換えるのであれば、「知識」と「行動」をどう結びつけることができるのか、ということでもありますね。では、この問題を哲学者のスピノザの思想を基に考えていきましょう。少し難易度が上がりますが、できるだけ噛み砕いて説明しますので、一緒に頑張っていきましょう。

 

「人間が実在することを通す勢いは制限されていて、そとの原因の力によって無限に越えられる。」(『エチカ』「第4部」命題3)

 

    この命題が意味するとこを説明していきましょう。これは「自分が思考すること」また、ある「信念」というものを持ち続ける時には、「外部の様々な要因」によって、様々な方法で乗り越えられる、ということです。つまり、自らの存在は、広大な外の世界に影響を受けている、ということです(例えば、大きなイベントを開きたいと考えてはいるが、「お金、人手不足」というような外の要因によって制限されている場合のような時)。

    これを「意志」の問題と合わせて考えてみますと、外の要因によって、自らの「意志」が制限されていることが分かると思います。つまり、一見「自由」に見える意志も実は「制限された範囲内での」自由な「意志」に過ぎないのです。では、能動的に動いている、つまり、意志を強く持ち、行動に移せている人は、「なぜ意志が強く」見えるのか。これに関しても、スピノザは次のように述べています。

 

「人間が自然の一部ではないということ、また、自分の自然の性だけを通して解ることのできる、自分が十全な原因である変化以外には、何の変化も被らないで済ませるということは生じえない。」(前掲同書、命題4)

 

    これが意味するところは、「自分自身の信念について無意識的に」行動できているということ以外は、常に何かの影響を受けている、ということであります。つまり、まだ何かしらの「ルール」や「縛り」のようなものに従って行動している段階ですね。この段階は、自らを「意識的に」律しないといけないですから、非常に忍耐力が必要となります。ですから、「意志が強く」見える人の背景には並々ならぬ努力(その行動を身体化するまでの忍耐力)が伴っていることになります。

    不思議に思った人もいるかもしれません。「意志を強く持つには、強く想うだけじゃだめなの?」と。それも正しいですが、自分は自分の経験からこう言えます。

 

「意志を強く持つには、成功なり失敗なり何かしらの経験、つまり行動が必要である。」

 

    徐々に終わりが見えてきましたので、もう少しの辛抱を。なぜ、このように思うのか、これもまたスピノザは以下のように述べています。

 

「精神のものとされるかぎりでの感情は、われわれがはたらきを被る変容と反対の、それよりも強い、体の変容の観念によらなければ、抑えることも除かれることもできない。なぜなら、われわれがはたらきを被る感情は、当のそれよりも強い、それと反対の感情によらなければ抑えられることも除かれることもできず(前の命題より)、つまりは(感情の一般定義より)われわれがはたらきを被る変容よりも強い、それと反対の、体の変容の観念によらなければ、抑えられることも除かれることもできないからである。」(前掲同書、命題7、系)

 

    最後にこんなヘビーなものを、、、と思った人が大多数でしょうね(笑)大変長い文章ですが、この文章が意味することはすごくシンプルです。つまり、「感情の変化には、身体の変化が必要」であり、「身体の変化が、感情を抑え、取り除くことができる」といった内容です。

    「感情の変化?え?身体の変化??どういうこと??」と思った人たちへ、ここでもまた例を出していきたいと思います。

 

     例えば、教科書の中で、「戦争は悲劇をたくさん生み出す」といった内容を学んだとしましょう。そこで多くの人は、「戦争は二度と起こしてはいけない」というような感情を抱くと思います。もちろんこの段階で「強く」思える人はいると思います。しかし、まだ他人事に感じる人もいると思いますが、そんな人に当事者になれ!というようにはもちろん言いません。そこで、当事者のリアル話を聞くこと、自分がその体験者の話を聞くことで、その場にいたかのような「リアリティ」を感じる。ここに「身体的な変化」があると思います。そこから、友人、家族、先生などにその体験を話す、そうして継続していくことで徐々に意志は強くなっていくものです。

 

    ここで重要なのは、このような身体的な経験は「1回では済まない場合がある」ということです。その1回の程度の問題(どのくらいの影響力の大きさがあるか)もあります。そして、人によってはなかなか変化を感じない人もいるかと思います。ですが、必ず小さな経験が、ある真理への「気づき」となることは間違いありません。自分はそう思っております。

 

(4). おわりに

    さて、今まで長々と話してきましたが、結局言いたいことは、「知識」と「行動」は別々に分けられたものではなくて、互いに影響を与え合っているもの、ということです。知識をもとに行動し、その行動をまた知識で改善していく。その行動が微小なものであれ、その積み重ねが「真理」へと向かっていることは間違いありません。そして、この積み重ねが「意志の強さ」にもなるのであると思っております。

    当たり前のようにこれをやっている人は、当たり前だと思うかもしれませんが、これが自分が大学院の2年間で感じたこと、体験したことをもとに考えたことです。様々な失敗をすることで、意志の弱さを実感し、挫折しました。皮肉にもそのおかげで、やっと気づけたこともあります。最初に「ノブレス・オブリージュ」という言葉を述べましたが、これが実行されるには、継続されるには並々ならぬ忍耐力、信念が必要です。初めから、正しい考えを持ち、行動に移せない人もいるかと思います。何度も自分のことが嫌になって責めたくなるかもしれません。しかし、その失敗の経験は、知識を行動と結びつける必要不可欠なものでもあるのです。

 

【参考文献】

スピノザ著、佐藤一郎編訳(2018)『エチカ抄』みすず書房