メソテース μεσοτης

読んだ本をもとに少し考察をしています。主に思想、哲学、教育に関連した本をもとに執筆していきます。読みたい本など、読書会のお誘いも随時受け付けております。

思考は「暴力」である。

   皆さんお久しぶりです。4月から学校での勤務が始まり、予想以上の忙しさに慌てふためいていました。学生時代に自分が思い描いていた生活とはかけ離れているものです、、、。自分でもなぜこんなに業務があるのか不思議なほど多いです。かつ、分からないことが膨大にあり、当たり前ですが、自分から分からないことを聞きに行かないとほぼ「放置」(言い方が悪いですが)状態となっています。というのも、こちらから「分からない」と言わなければ気づくのが難しいのだと思います。そのくらい他の先生方も仕事の多さに悩まされているのでしょう。

 

   さて、本格的な授業が始まって約1ヶ月が経とうとしています。新任の自分は、右も左も分からないまま手探りの状態で授業を進めています。授業では、自分の勤務している学校が目標として掲げている「自律した学習者を育てること」、を重点的に意識しています。そんな中、最近授業で余裕が出てきて、ふと思うようになった疑問があります。それは以前より考えていた「思考すること」についてです。

   近年は、「主体的・対話的で深い学び」を意識した授業が行われています。というより、文部科学省が必死で推し進めています。そんな中これを遂行するための手段として「アクティヴ・ラーニング」が流行していますね。生徒が「能動的に」学習に参加し、学習するように授業を設計しますが、これがまた非常に難しいです。安易にグループワークをして、生徒同士で話し合いをさせ、生徒が能動的に学習している「つもり」になってしまう恐れが非常に大きいからです。

 

   今回の記事では、このような「能動的な学習において生徒が“思考すること”」について書いていこうと思います。流れは以下のようになっています。

 

  1. 誰もが「思考すること」について知っているのか?
  2. 思考は「暴力」である。
  3. 選択の自由と、選択肢の自由について。
  4. 実際の授業ではどうすればよいのか。

 

1. 誰もが「思考すること」について知っているのか?

   皆さんも学生を経験したのであれば分かる人も多いと思うこの言葉、そして先生をしている人であればついつい使ってしまいがちなこの言葉、、、

 

グループのみんなで考えてみてください

 

   先生からのこの言葉で困惑した人は多いと思います。この言葉の裏に潜んでいる意味について少し考えましょう。この言葉の前提にあるのは、「すべての人が“思考すること”について知っている」ということです。ですから、みんな思考できる「はず」だと思い、暗黙のうちに指導してしまうのだと思います。果たしてすべての人は本当に「思考すること」について知っているのでしょうか。

   かつてデカルトは「私は思考する、ゆえに、私は存在する」と言いました。これは《コギト》の概念が指す内容ですね。この言説に対して、哲学者のジル・ドゥルーズは以下のように述べています。

 

この前提は、「すべての人が知っている……」という形式をそなえている。すべてのひとは、概念以前に、哲学的以前的な様態で、知っている……、すべてのひとは、思考することそして存在することが何を意味するのか知っている……、したがって、(中略)存在することおよび思考することが何を意味しているのかを、すでに〔すべてのひとによって〕理解されたものとして、暗黙のうちに前提することができる……、そして、だれも、疑うことは思考することであり、思考することは存在することであるということを否定できない……、すべてのひとは知っている、だれも否定できない。(『差異と反復』「第三章 思考のイマージュ」、347-345頁)

 

   さて、この引用から分かるようにデカルトによる《コギト》の概念に強化された「思考すること」の自明性は依然として強力なものです。その理由として考えられるのは、私たち自信が普段の生活で思考「している」からではないでしょうか。例えば、学校でテストの解答を「考え」、どのように書くかを「思考」します。それ以外でも、日常生活において寝ている時以外は、ほぼ、思考しています。しかし、日常的であるからこそ陥りやすい罠がここには潜んでいると思います。それはどういうものかと言うと、デカルトが指す「思考すること」(以下、デカルト的思考)と、私たちが普段行なっている「思考すること」(以下、日常思考)は、全くとまではいかないにしても、別物だということです。そして、前者の「思考すること」は訓練を積まなければ「できない」のではないでしょうか。補足説明すると、「デカルト的思考」と「日常思考」の両者の間の境界線は非常に曖昧です。ものすごく重なり合っていると思います。さらに言えば、「デカルト的思考」は定着すると(内在化)、「日常思考」にもなりうると思います。

   では、どうすれば「デカルト的思考」を身につけることができるのでしょうか。

 

2. 思考は「暴力」である。

   さて、私たちは学校で「知識」を学び、そして大学でも、仕事場でも概念としての知識を学びます。これは「形式知」と呼ばれています(これに対置されるものは、経験されることによって身に付けることのできる「経験知」です)。ドゥルーズはこの「概念」にある一つのものが欠けている、と述べています。

 

まことに、概念というものは可能性を示しているにすぎないのだ。概念に欠けているのはひとつの爪である。絶対的必然性の爪、すなわち思考に加えられる根源的暴力という、また奇妙さという、あるいはそれだけが思考をその自然的昏迷とその永遠の可能性とから救い出す敵意という爪であるようなひとつの爪である。(同上、371頁)

 

   なぜ、思考に対してある種暴力的な「」が必要なのでしょうか。そもそもこの「爪」と一体何なのか。それは、非日常的なモノ(物理的な物だけでなく、他者から発せられる言動や、出来事なども)であると思います。例えば、毎日元気よく挨拶してくる友人が急に何も挨拶しなくなったらどうでしょうか。「なぜ挨拶しなくなったのか」「何か悲しいことがあったのか」考えることでしょう。これが「思考」であり、暴力的な「爪」によって引き起こされているものです。つまり、人は意志的に思考しようとしているのではなく、思考「せざるを得ない」状況になることで思考しているのです。ドゥルーズは続けて以下のように述べています。

 

思考のなかに強制的に引き起こされた、非意志的な思考〔作用〕よりほかに思考は存在せず、不法侵入によって、偶然から世界のなかに生まれ出るがゆえに、ますます絶対的に必然的であるような思考しか存在しない。思考において始原的であるもの、それは不法侵入であり、暴力であり、それはまた敵であって、何ものも愛知(フィロゾフィー)〔哲学〕を仮定せず、一切は嫌知(ミソゾフィー)から出発するのだ。(同上、371-372頁)

 

   この引用が意味するところは、思考においてその「開始点」となるものは、「暴力(爪)」である、ということであります。つまり、開始点において既に「受動的」なものが思考なのです。

 

3. 選択の自由と、選択肢の自由について。

   さて、ここまでくるとこの節の見出しの意味もすぐに分かるでしょう。私たちは日常的に思考していることは、「日常思考」を用いて説明しました。この日常思考を行なっている時、私たちは「自由である」と感じています。なぜなら、自分が考えて、自分で物事を「選択」しているからです。テストのために勉強するも、しないも「自由」です。

   しかし、よく考えてみましょう。私たちはそのような選択を本当に自由に行なっているのでしょうか。何事もなく、日常生活を送り、学校に行っているなかで、ふと「海外に留学しよう」という気持ちが湧き出てくるでしょうか。つまり、「新たな」選択肢は生まれてくるのでしょうか。先ほども述べたように、思考は「暴力」です。思考とは能動的なものではなく「受動的」なものであるとも述べました。つまり、選択肢は与えられているものであって、その与えられたものの「範囲内」で自由に思考しているにすぎない、ということです。ここで注意してほしいのは、選択肢を与えるものは決して人物「だけではない」ということです。テレビのニュースや、街中で見かけた少し異様な光景、普段とは違った風景の通学路、など様々です。

   これらはみな「暴力」です。それは先ほどドゥルーズの引用から見たように、他者の頭の中へ「不法侵入」して、非日常を見せつけているからです。これを暴力と言わずして何と言いましょうか。

 

   ここから、人間は独りでは「思考すること」が難しいことが分かります。私たちは、常に、他者が思考できるように働きかけ(暴力)、選択肢を増やし続けるのです。そうすることで、(本当は受動的な)思考もより自由に「感じる」ことができると思います。

 

4. 実際の授業ではどうすればいいのか。

   もう既にお判りかとは思いますが、生徒に考えさせたいのであれば、こちらから選択肢を提示しなければなりません。もちろん、選択肢の増やし方を教えるのもいいと思いますが、まずはこちらから強制的に提示する方がいいと思います。生徒は与えられた選択肢のなかで「考え」、そして深めていきます。こうして深まった知識は間違いなく他の知識と結びつきます。

   「思考の仕方」や「考え方」がわからない生徒、というよりもそういうことをそもそも知らない生徒に対して「自由に考えて!」というのは余りにも酷なことだと思います。考えてみてください。360度見渡しても砂しかない砂漠に独り放置された状況を。非常に恐ろしいです。本当に生徒に「思考」させたいのであれば、それを当たり前と思わずに、「思考するとはどういうことか」をしっかりと考えるべきです。そこを考えられずに出てきた「自由に考えて!」は、無責任でしかありません。今一度「思考するとはどういうことか」を自分で考えたうえで「主体的・対話的で深い学び」を実践していければと思います。

 

【参考文献】

ジル・ドゥルーズ著、財津理訳(2007)『差異と反復〔上〕』河出書房新社