メソテース μεσοτης

読んだ本をもとに少し考察をしています。主に思想、哲学、教育に関連した本をもとに執筆していきます。読みたい本など、読書会のお誘いも随時受け付けております。

「誤配」の教育的意義について

   皆さんこんばんは。最近は学校での授業や業務にも少しずつ慣れてきて、心身ともにゆとりがでてきました。それに伴って、読書の量・スピードも上がってきています。なかなか充実した毎日を送っています。

   その中の本の一つで、つい先日刊行された、東浩紀さんの新著である『テーマパーク化する地球』(ゲンロン)を読みました。そこで以前から東さんがしばしば用いていた「誤配」や「余剰」について色々と思考を巡らせていたのでそれについてまとめたいと思います。

 

Ⅰ. 「余剰」と「誤配」その目的と、等価交換

   まずは、東さんが運営の思想について書いていることを引用します。

 

「運営の思想は資本主義の論理である。もう一歩踏み込んで哲学的に定義すれば、「等価交換」の論理ということになる。運営者は、消費者に対価に応じたコンテンツを提供し、対価に応じた責任を負う。そしてその責任しか負わない。コンテンツを引き渡し、消費者がクレームをつけなければ、そこでプラットフォームとしての責任は終わる。コンテンツが「商品」だというのは、つまりそういうことである。」(『テーマパーク化する地球』「5 批評とはなにかⅡ」377頁)

 

   しかし、東さんによるとゲンロンが提供している「コンテンツは、じつは商品であって、同時に商品ではない」と言っています。どういうことか。

 

「つねにそこに、等価交換以上の「なにか」を、すなわち、消費者が支払いのときに事前に欲望=予想していたたものとは異なる経験を忍び込ませるように試みている。」(同上書、378頁)

 

   つまり、本来受け取ると思っていたもの「以外」にも収穫があるという「意外性」を商品の売りとしており、その「余剰」によって、「購入者を等価交換の外部へと誘っている」という。では、「(1). なぜ東さんは、そしてゲンロンという会社はわざわざ「余剰」を忍び込ませるのでしょうか?」再び引用します。

 

「これは、等価交換を意図的に「失敗」させるということでもある。消費者は、ゲンロンにおいては、商品を買うことで、少なからぬ確率で、最初に欲望=予測していたものとはちがうなにかを受け取ってしまう。それは等価交換の失敗である。けれどもその失敗は、同時に、購入者の欲望=予測が「変形」され、新たな創造性の回路が開かれるということでもある。ぼくはしばしばそれを「誤配」と呼んでいる。」(同上書、378頁)

 

   これまでの話をまとめると、等価交換以上の「余剰」を忍び込ませる理由は、等価交換の意図的な失敗によって、購入者の事前の欲望=予測を「変形」させ、新たな創造性の回路を開くため、ということです。非常に面白いです。

   では、「(2). なぜ購入者の欲望=予測を変形させ、新たな創造性の回路を開く必要があるのでしょうか?

   これは、今現在の資本主義社会が抱える問題と大きく関わっていると思います。それに関して今度は、東さんと、メディア論を専門としている石田英敬先生の共著『新記号論』(ゲンロン)から引用します。

 

「消費を分析できないような理論は、20世紀以降生きていけないんですよ。消費をもっと理解することからしか、次の社会へのオルタナティブはない。ぼくはその理論を作っていると思っている。つまり、どういうふうに欲望はつくられるかとか、どういうふうにして欲動は制御されるのかとか、(中略)そこからしかつぎの社会のビジョンは生まれない。」(『新記号論』「第3講義 書き込み体制2000」313頁)

 

「子どものころから人々がそのような意識(消費者としての意識)を産業的に育てられてきた社会に生きているわけです。労働者をふくめて、意識はみな完璧に消費者化しているんです。だから、逆サイドから行かないとだめなんです。消費者というポジションから問わないと、次の社会を問う言説は有効性を持たないんですね。」(同上書、315-316頁)

 

   東さんは、石田さんが指摘するように、これまでの資本主義の論理に限界を感じ、資本主義の担い手である消費者そのものの意識改革、つまり消費文化の改革をゲンロンという会社を通して行っているのだと推測できます。というより、これは推測というよりも東さん自身がゲンロンの何かの書籍で仰っていると思います(リサーチ不足で申し訳ございません、、、)。

   そして、その消費者の意識改革として、「余剰」による「誤配」で消費者の欲望=予測を「変形」させることを意図的に行なっています。さらに、問いを進めてみたいと思います。「(3). なぜ消費者の意識改革は為される必要があるのでしょうか?」再び『テーマパーク化する地球』に戻りたいと思います。

 

「ひとは等価交換から解放されるべきだという発想そのものが、ある観点からは危険でブラックだと非難されかねないものであることもまた承知している。(中略)しかし、そのような非難を寄せる人々は、そもそもゲンロンの逆説を、というより文化の逆説を理解していない(中略)。文化は等価交換の外部にある。等価交換を善と見なす世界からは、それは原理的に悪となる。文化とはそもそもそういうものなのだ。」(『テーマパーク化する地球』「5 批評とはなにかⅡ」386頁)

 

   ここから読み取れるのは、「文化の復権」ではないでしょうか。徹底された資本主義社会によって疲弊した自分たちの文化。いい例が「実学志向」や「人文系学部廃止」といったようなことだと思います。つまり、等価交換の外にある、人間としての文化を、また、等価交換の論理に閉じ込められ消費文化にどっぷりと浸かっている私たち現代人を救い出そうとしているように思えます。これはマルクスとはまた違った形での「資本主義に対する抵抗」だと感じます。

 

Ⅱ. 等価交換の論理で動く教育現場

   ここまで、東浩紀さん、そして石田英敬さんらによる著書2つを参考にしながら、現代の消費社会におけるひとつの解決の糸口として、「余剰」と「誤配」という概念を見てきました。ここからは、等価交換の論理に蝕まれかけており、自分が実際に関わっている教育現場について見ていきたいと思います。というのも、東さんの「余剰」と「誤配」を見たときに真っ先に「教育」が思いついたからです。

 

   今に始まったことではありませんが、教育現場における「実学志向」や「人文系学問の軽視」は顕著なものとなってきおります。私自身が高校時代の時から、「将来英語なんて使わないから英語はやらなくてもいい」や「歴史なんて過去のことじゃん!自分たちは未来に生きる人間だ!」などのように「教科」を「有用性」の尺度で測ろうとする生徒が目立ちます。さらに拍車をかけて、ひどいものだと「勉強はなんの役に立つの?」という問いも出てきたりするところもあるのではないでしょうか?

 

   しかし、これは物事を自分に「役に立つ」かどうかで判断する生徒が、子どもが悪いのではありません。というよりも、先程述べたようにそういう環境の中で育ってきているから「仕方のない」ことなのです。では、それを「仕方のない」ものとして片付けていいかと言われると、もちろん答えは「NO」です。

   このような現状を内田樹さんは、諏訪哲二さんの『オレ様化する子どもたち』(中公新書ラクレ)をもとに「学びからの逃走」(佐藤学さんが最初に言われ始めたが)というふうに説明している。では、学びから逃走する子どもたちはどのようにして生まれてきたのであろうか?

 

「私たちは、生活のすみからすみまで「情報メディア」から情報が入り込んでいる生活を、初めて経験している。朝から夜まで「情報メディア」から情報が入ってくる生活も初めてである。お金がお金を生み出す経済の運動のなかに完全に巻き込まれている。子どもたちが早くから「自立」(一人前)の感覚を身につけるのも、そういう経済のサイクルのなかに入り込み「消費主体」としての確信を持つからであろう。子どもたちは今や経済システムから直接メッセージを受け取っている(教育されている)。学校が「近代」を教えようとして「生活主体」や「労働主体」としての自立の意味を説くまえに、すでに子どもたちは立派な「消費主体」としての自己を確立している。」(『オレ様化する子どもたち』「終章 なぜ子どもは変貌し、いかに大人は対処すべきか」221-222頁)

 

   これはまさに石田さんが指摘した通り、同じことを諏訪哲二さんもしてしております。つまり、私たちは無意識のうちに「消費主体」としてのアイデンティティをまず「初め」に確立することは現代において、ほぼ間違いはなさそうです。

   では、消費主体として自立をした子どもたちは、「市場」ではない学校においてどのように振る舞うようになったのでしょうか。内田さんが言うには、「何よりもまず対面的状況において自らを消費主体として位置づける方法を探すようになる」ということです。つまり、教師が提供する「教育サービスの買い手」として振る舞うようになるのです。

   しかし、皆さんもご存知の通り、学校で行われている授業などは決して「商品」などではありません。つまり、「価値がつけられないもの」なのです。これは当たり前ですが、各人にとってそれぞれの「教科」が持つ価値というものは異なります(数学が一番価値があると思う生徒もいれば、音楽が一番だと思う生徒もいる)。そして、学校で教わった内容は「即」効果があることもありません。これは「教育の逆説」でもあります。「教育の逆説」とは何か。

 

「教育の逆説は、教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得ているのかを、教育がある程度進行するまで、場合によっては教育課程が終了するまで、言うことができないということにあるます。」(『下流志向』「第1章 学びからの逃走」46頁)

 

   しかし、消費主体としての生徒には、そして消費文化の中にどっぷりと浸かった人たちにとって「即時的に」役に立つもの以外は「商品」ではありません。つまり、買う(受け取る)価値がないものとなってしまいます。では、「仮に」そのような人たちにとって買う(受け取る)「価値がある」ものがあったとして、何を等価交換の対価として支払うのでしょうか?それは、内田さんによると「不快という貨幣」です。

 

「50分間の授業を黙って耐えて聴くという作業は子どもたちにとっては「苦役」です。彼らはその苦役がもたらす「不快」を「貨幣」に読み換えて、教師が提供する教育サービスと等価交換しようとする。」(同上書、48頁)

 

   このような等価交換の論理が教育現場に充満するようになったのは、資本主義の徹底化による影響で間違いありません。そして、このままでは教育が機能しなくなることは火を見るよりも明らかです。ですから、教育も東さんや石田さんが指摘したように「等価交換の外部」へ行く必要があります。というよりも、「戻る」必要があるのです。

   そもそも学びには、「教育の逆説」として先程も指摘したように自分が「今」受けている教育と、「今後」の自分の変貌との間に「時間的なズレ」がある、ということです。内田さんは、以上のような問題提起をしましたが、具体的な解決作は提示していません。教育の本質、そして学びの特徴を述べて、そのまま「労働」の問題へと話を進めていました。

   そこで、私は東さんの「余剰」と「誤配」に注目しました。これは完全に消費主体と化した子どもたちや、消費者のマインドそのものを「変形」させる必要があります。つまり、一見、等価交換している「ようで」余剰によって「誤配」されているという状況を作り出す必要がある。石田さんの言葉を借りるのであれば「消費者のポジションから問う」のです。そのためには、教師も変わらなけばなりません。でなければ、一生消費者のマインドが理解できずに、等価交換の論理のもとで機能しない教育をひたすら続けていくことになります。

 

   教育とは「文化的な営み」です。人間が人間であるために、また人間らしく生きるために古来から行われてきた営みです。そのような文化は、ここ100年で発達した資本主義の論理に負けていいはずがありません。抵抗しなければなりません。そのためには、等価交換の論理の中で正面から向き合い、「内部」から「変形」させていく必要があります。これは非常に時間のかかることだと思います。ただ、それが一番の近道だと思っています。教育が教育本来の機能を回復するために、そして人間が人間であるための文化を残すために日々考え続ける必要がありそうです。最後に、東さんによる痺れる言葉で締めたいと思います。

 

「ゲンロンは、(中略)、人間が人間であるために、等価交換の外部を回復するためのプロジェクトである。それは具体的には、匿名の商品交換の内部に誤配として人格的関係を滑り込ませるプロジェクトであり、運営の思想の内部に誤配として製作の思想を滑り込ませるプロジェクトである。」(同上書、389-390頁)

 

【参考文献】

東浩紀(2019)『テーマパーク化する地球』ゲンロン

東浩紀石田英敬(2019)『新記号論』ゲンロン

内田樹(2007)『下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち』講談社

諏訪哲二(2005)『オレ様化する子どもたち』中央公論新社